グレート・ゲーム
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グレート・ゲーム(英語:The Great Game)は、中央アジアの覇権を巡る大英帝国とロシア帝国の敵対関係と戦略的抗争を指す。アーサー・コノリーが命名した言葉といわれる。この言葉は後にイギリスの作家ラドヤード・キップリングの小説キムにより広く使われるようになった。初期のグレート・ゲームは、一般にほぼ1813年から1907年の英露協商までの期間を指す。1917年の2番目のロシア革命後は、それほど激しくない時期が続いた。
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[編集] 歴史
[編集] 19世紀のグレート・ゲーム
19世紀初めにイギリス領インド帝国と、帝政ロシアの外延部を隔てる境界線が2000マイルにわたって引かれていた。その多くは地図上に引かれたものではなかった。ブハラ、ヒヴァ、メルブ遺跡、タシュケントという都市は、事実上外部からはどちらのものか分からなかった。帝政ロシアの拡張は、インド亜大陸を占領し優勢を誇るイギリスと衝突する脅威になったので、中央アジア全体で両大帝国は探検、情報活動、帝国主義的外交の微妙なゲームを行った。紛争は常に脅威となったが、両国が直接戦争を行うことにならなかった。この活動の中心は、アフガニスタンにあった。
イギリスは、ロシアの拡張が大英帝国の「王冠の宝石」と呼ばれていたイギリス領インド帝国を破壊する脅威になると恐れていた。ツァーリの軍が、あるハーンの領地を侵略し始めたので、イギリスはアフガニスタンがロシアのインド侵攻の拠点になることを恐れた。1838年にイギリスは第一次アングロ・アフガニスタン戦争を始め、シュジャー・シャーの下で傀儡政権を打ち立てようとした。しかし、その統治期間は短命に終わり、英軍の支援が無ければ続かなかった。1842年までに暴徒がカーブルの通りでイギリス人を襲撃していて、イギリスの駐屯部隊は、通行の安全を保証されてカーブルからの撤退に同意した。イギリスには不幸なことに、この保証は反故にされた。撤退するイギリス軍の縦隊は、約4500人の軍人と女性や子供を含めて12000人がいた。非情な攻撃の連続で、数十人を除いて全員が、インドへの撤退中に殺害された。
イギリスはカーブルからの屈辱的な撤退の後、アフガニスタンへの野心を抑えていた。1857年のインド大反乱の後、イギリスの政権はいずれもアフガニスタンを緩衝国と見なしていた。しかし、ロシアは1865年までにアフガニスタンに向けて着実に南進を続け、タシュケントが正式に併合された。サマルカンドは3年後にロシア帝国領になり、ブハラの独立は、事実上同年の平和条約で失われた。ロシアの支配は、今やアムダリヤ川の北岸まで拡大していた。
ロシアが1878年にカーブルに在外公館を置いたことで再び緊張が高まった。イギリスはアフガニスタンを統治するシール・アリーが、イギリスの在外公館を受け入れるよう要求した。公館は設置できず、その報復として4万の軍が国境に送られ、第二次アングロ・アフガニスタン戦争が始まった。この第二次戦争はイギリスにとって殆ど第一次の戦争と同じく悲惨なものであった。シール・アリーの打倒には成功したものの、各地で部族の反乱が相次ぎ、損害が拡大した。
イギリスは1879年、王への即位の条件としてムハマッド・ヤアクーブにガンダマスク条約を結ばせ、アフガニスタンを保護国化した。次いで即位したアブドゥッラフマーン・ハーンにもこれを認めさせると、イギリスは1881年までにカーブルから撤退した。ハーンは自分の地位を強化する一方でイギリスにアフガニスタンの外交政策を維持させることを了承した。何とか非情な手法で国内の暴徒を鎮圧し、中央集権に移行させることができた。
1884年、ロシアのアムダリヤ川北部、メルブ遺跡のオアシスへの侵攻に起因して、新たな危機が生じた。ロシアは全部嘗ての支配者の領域だと主張し、Panjdehのオアシスを巡ってアフガニスタンと戦った。両強国の戦争の瀬戸際でイギリスはロシアが領有することを受け入れることを決定した。アフガニスタンの頭越しに英露国境画定委員会は双方が譲歩して更に領域を手に入れることは放棄したが、Panjdehの問題は残った。アフガニスタンは広大な領域特にPanjdeh周辺を失ってアムダリヤ川を北の国境線とする合意が形成された。
1907年の英露協商は、19世紀のグレート・ゲームの終焉をもたらした。ロシアは、イギリスがアフガニスタンの体制を変更しないと保証する限り、イギリスが統治することを受け入れた。ロシアは、アフガニスタンとの全ての政治関係が、イギリスを通じて構築されることに合意した。イギリスは現行の国境を維持し、アフガニスタンにロシア領域に侵攻させないよう積極的に行動することを受け入れた。
[編集] 20世紀のグレート・ゲーム
1917年のロシア革命は、既存の協定を無効にした。その結果、第2次グレート・ゲームが始まった。1919年の第三次イギリス・アフガニスタン戦争は、時の支配者ハビブッラー・ハーン暗殺により勃発した。息子で王位継承者のアマーヌッラー・ハーンは、完全な独立を宣言し、イギリス領インド帝国の北の国境を攻撃した。軍事的な成果は殆どなかったが、膠着状態は1919年のラワルピンディ協定で決着できた。アフガニスタンは再び自主的な外交ができるようになった。1921年5月、アフガニスタンとロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は、友好条約に調印した。ソ連はアマヌッラーに現金、技術、軍備の形で援助を与えた。アフガニスタンにおけるイギリスの影響は衰えたが、アフガニスタンとロシアの関係は、多くのアフガニスタン人が、メルブ遺跡やPanjdehの編入を願いながら、曖昧なままだった。ソ連はこの点についてはアマヌッラーの考えるよりも多くを友好条約から引き出そうとしていた。
イギリスは、アマーヌッラーが自分達の影響範囲を逸脱することを恐れ、そしてアフガニスタン政府の政策がデュラン線の両側でパシュトゥン語を話す人々全てを支配しようとしていると考え、この条約に応答する形で小規模な制裁を課し、外交上の侮蔑を行った。1923年、アマーヌッラーはその称号をアミールからパドシャー(王)と変え、さらにソ連から逃亡したムスリムと英領インドから亡命したインド人民族主義者を受け入れることで、イギリスに応えた。
しかし、アマヌッラーの改革計画は、迅速に十分軍を強化するには不十分で、1928年に圧力を受けて退位し、王位を継承した兄イナーヤトゥッラー・シャーも3日で退位した。この危機から台頭したのは、ムハンマド・ナーディル国王であり、1929年から1933年まで統治した。ソ連とイギリスは、優勢に状況を進めたが、イギリスがアフガニスタンに4万人の職業軍人による軍を創設する一方で、それは1930年から1931年にウズベク人の暴徒と合意を図るよう援助した。
第二次世界大戦が始まるとイギリスとソ連の関係は一時的に提携関係が見られた。1940年両政府はアフガニスタンに、ドイツの非外交組織を追い出すよう圧力をかけ、そうした団体は、両国の情報組織より壊滅した。初めのうちは抵抗を受けた。ソ連とイギリスが協力する時代に入ると、両強国間のグレート・ゲームは終わりを迎えた。
[編集] グレート・ゲーム再び
第二次世界大戦終結と冷戦開始と共にアメリカ合衆国がイギリスに取って代わったこの時期は時に評論家から「新グレート・ゲーム」と呼ばれていて、インド、パキスタン、アフガニスタン、更に最近では嘗てソ連領だった中央アジアにとっては「グレート・ゲーム」に対する軍事、安全保障、外交上の共同体に関連がある。1997年、ズビグネフ・ブレジンスキーは21世紀版のグレート・ゲームを主張する「The Grand Chessboard: American Primacy and Its Geostrategic Imperatives」を出版した。大衆メディアはアフガニスタンの多国籍軍とターリバーンとの戦いを、グレート・ゲームが続いていると見ている。
[編集] 大衆文化におけるグレート・ゲーム
- ジョージ・マクドナルド・フレーザー著 Flashman in the Great Game(1999年) ISBN 0-00-651299-2
- グレート・ゲームはスティーヴン・モークマスのアルバム所収の「ピンク・インディア」で歌われている。この歌ではアフガニスタンのソ連侵攻によるグレート・ゲームの政治的な遺産を歌っている。この歌は初めてロシアの保持するアフガニスタンとイギリスの保持するインドやパキスタンを分離して国境線を確定しようとしデュラン線で知られるモーティマー・デュランに捧げられている。
- グレート・ゲームはIqbal Malhotraのドキュメンタリー「悪魔の風」にも出てくる。このドキュメンタリーはキプリングの足跡を辿り、過去の姿を現状に当てはめてみようとするものである。内容は歴史と現代政治の背景にある中央アジアの紀行映画になっている。「悪魔の風」はDocsOnlineで見られる。
[編集] 参考文献
- Peter Hopkirk. The Great Game: The Struggle for Empire in Central Asia, Kodansha International, 1992, ISBN 4-7700-1703-0, 565p. The timeline of the Great Game is available online.
- Karl Meyer. Tournament of Shadows: The Great Game and the Race for Empire in Asia, Shareen Brysac, 2001, ISBN 0-349-11366-1
- Robert Johnson, Spying for Empire: The Great Game in Central and South Asia, 1757-1947', (London: Greenhill, 2006)ISBN 1-85367-670-5 [1]