シリアの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シリアの歴史を記す。この地域は世界的にも歴史の古い土地であり、古代オリエント時代においてもメソポタミア、アッシリア、バビロニア、さらにギリシア・ローマ、ビザンチン帝国と支配者がめまぐるしく変わり、今のようにイスラム世界に入ってからも、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジューク朝、などの各王朝からモンゴル人のイル汗国、オスマン帝国と支配者は変わった。近代には列強の争いの舞台となるなど、人類史の縮図といっていい。
目次 |
[編集] 概史
[編集] 先史
この地域は世界で最も古い歴史を持つ土地と言われ、紀元前1万年頃に氷河期が終わり、地球が温暖化が始まった紀元前8000年頃にはこの地域では麦による農耕が始められた。紀元前6000年ごろには「肥沃な三日月地帯」の一部として灌漑農業が発展し、紀元前3000年ころには農耕に富を基盤とした文明の萌芽があった。
[編集] 「肥沃な三日月地帯」
紀元前3世紀にはエブラ、キシュ、アブツァラリク、マリなど血縁によって結ばれたセム語都市文明圏が成立し、そのうちエブラは大麦、オリーブや織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、メソポタミアからパレスチナ、エジプトまで交易が営まれていた。エブラは紀元前2250年ごろにアッカドに滅ぼされる。またマリは宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えるが、紀元前1850年古アッシリア王国のシャムシ・アダド王がヤスハマ・アッドゥーをマリ王にし間接支配を布いた。そして紀元前1759年にはバビロニア第1王朝のハムラピ王に滅ぼされた。その後紀元前15世紀はにミタンニ王国が成立。紀元前13世紀にはアッシリアがミタンニ王国滅ぼした。一方、海岸部ではフェニキア人の植民が展開された。ヒッタイトが滅亡するとアラム人の小国が乱立。それを紀元前735年新アッシリアが統一。紀元前732年にはキンメリア人による侵攻を受けた。その後新バビロニアが新アッシリアを滅ぼし、新バビロニアは「肥沃な三日月地帯」を統一した。その後、アケメネス朝ペルシアがこの地を征服した。
[編集] ギリシアとローマの支配
アケメネス朝ペルシアの支配は長く続いたが、アレクサンドロス大王の征服を受けると、急速にギリシア化が進んだ。紀元前321年にはアレクサンドロス帝国は分裂し、紀元前301年にセレウコス朝シリアが建国された。セレウコス朝シリアはインドからイランをへてトルコにいたる広大な領土を持っていたが、紀元前200年ころからパルティア、バクトリアの侵食を受け縮小。さらにポエニ戦争にかかわったことから古代ローマと交戦状態となり、衰退し紀元前64年にローマに併合された。 ローマの支配下ではパルミラなど諸都市が大いに栄えた。
[編集] イスラム圏へ
ローマが東西に分裂するとシリアは東ローマ帝国の版図に入る。だが7世紀にはイスラム勢力が勃興し、イスラム圏に組み入れられた。ウマイヤ朝のもとではダマスカスが首都とされた。その後754年に樹立されたアッバース朝はバグダッドを首都としたため、シリア地方に転落した。しかし、バグダッドからはシリアのダマスカスに通じる門と街道が整備された。中央アジアからトルコ系遊牧民が渡来し、セルジューク朝を樹立すると、シリアにはシリア・セルジューク朝が成立した。その頃ヨーロッパから十字軍が侵攻し激戦が展開された。さらにフラグ率いるモンゴル人がこの地を征服イル汗国を建国した。その後シリアはエジプトのマムルーク朝の支配を受けることになった。北方でオスマン帝国が興隆し、マムルーク朝が滅ぼされるとシリアはオスマン帝国の支配を受けることになった。