ジェームズ・ラムゼイ
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ジェームズ・アンドルー・ブラウン・ラムゼイ (James Andrew Broun Ramsay,10th Earl of Dalhousie,1st Marquis of Dalhousie,1812年4月22日 - 1860年12月19日)は、イギリスのホイッグの政治家。第10代ダルフージー伯爵。初代ダルフージー侯爵。インド総督(在職1848年-1856年)。
スコットランドの旧家ラムゼイ家に生まれる。1837年下院議員、翌年に上院議員。1843年第二次ピール内閣で商務院副総裁、1845年に商務院総裁。1847年にインド総督を任命され、翌年着任。
第2次シーク戦争(1848年-1849年)により、パンジャーブを併合。1852年からの第2次ビルマ戦争でペグー地方を奪取し、下ビルマ一帯をイギリス支配下においた。
既にイギリス保護領となっていた、インド藩王国に対して併合政策を推し進め、養子相続を認めない「失権の原理」で、後継者の絶えたサーターラ(1849年)、サンバルプール(1849年)、ジャンシ(1853年)、ナグプール(1853年)などを次々とイギリスへ編入。デカン高原の大藩王国ハイデラバードからは、1853年、保護条約に基づき、イギリス駐留軍駐留費の不払いを理由に、その代償としてベラール地方を併合。1856年、北部のアウド藩王国に対しては、失政が行われていると理由をつけてその行政権を取り上げ、全土併合を宣言した。
鉄道、道路、橋、運河の建設、郵便制度や電信施設の開設・整備、軍隊・警察の拡充などにもつとめ、植民地インドの全域を以前より緊密な統一下においた。行政・教育改革もおこなった。
1856年、任務を終えて帰国し、名声高い前総督として歓迎されたが、43歳の若さだというのに老人のような病身で、歩行すら困難だった。
1857年、ラムゼイの強引な政策が直接の原因となり、インドがセポイの反乱につつまれた。その政策は非難攻撃を受けたが、彼は自らの弁護にも立てず、1859年の娘エディスの結婚式を見届けた翌年、亡くなった。
彼には二人の娘がいたのみだったため、初代ダルフージー侯の称号は継承できず、彼一代で終わった。