ジョン・シャリカシュヴィリ
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ジョン・マーチェイズ・デイヴィッド・シャリカシュヴィリ (John Malchase David Shalikashvili, 1936年6月27日 - ) はアメリカ陸軍の軍人。第13代アメリカ軍統合参謀本部議長を務めた。最終階級は大将。
ポーランドのワルシャワで、グルジア人の両親のもとに生まれる。父ドミトリは1921年にソヴィエトに占領されたグルジア民主共和国の中佐で、第二次世界大戦中はナチスの武装親衛隊に協力してソヴィエトと戦った。やがてソヴィエト軍がワルシャワに接近したため、1943年に一家はドイツのパッペンハイムに移る。1952年にはアメリカのイリノイ州ピオリアに移住し、ジョンもアメリカ国籍を取得した。
1958年にはブラッドリー大学を卒業し、機械工学の学士号を取得。同年、陸軍に召集され、士官候補生学校を経て1959年に少尉に任官。以後、海軍指揮幕僚大学および陸軍大学を経て、1982年には准将に昇進。陸軍参謀本部戦略計画副部長に任命される。この間にアラスカ、ドイツ、イタリア、ヴェトナム、韓国勤務等を経験し、ジョージ・ワシントン大学で国際関係学の修士号を取得している。
1984年、ふたたびドイツに戻り、第1機甲師団副師団長となる。1986年、陸軍参謀次長補(作戦計画担当)兼戦略計画部長に任命され、少将に昇進。1987年から1989年にかけては、第9歩兵師団長を務めた。1989年には中将となり、在欧アメリカ軍副司令官兼第7軍司令官としてドイツに赴任。
1991年の湾岸戦争に際しては湾岸地域への兵器輸送を指揮。同年4月には、困難をきわめたクルド難民支援作戦の指揮官に抜擢され、これを成功させる。このときのシャリカシュヴィリの作戦行動は、難民キャンプの恒久化を巧みに避ける配慮がなされており、難民問題の専門家からも高く評価された。
1991年8月、ワシントンに戻り、統合参謀本部議長補佐官に就任。ついで大将に昇進し、1992年から1993年にかけてNATOヨーロッパ連合軍最高司令官兼在欧アメリカ軍司令官を務める。1993年10月、コリン・パウエルの後をうけて第13代統合参謀本部議長に指名され、1997年に退役するまでこの任にあたった。現在は、スタンフォード大学国際研究所客員教授の地位にある。
ナチス協力者の父のもとに生まれ、ポーランド移民としてアメリカに渡り、一兵卒として召集されてアメリカ軍のトップに上り詰めたという異色の経歴の持ち主。軍人らしからぬ温和な風貌、控え目で善良な人柄で知られ、湾岸戦争等で発揮された卓越した作戦遂行能力により、第二次世界大戦後のアメリカ屈指の名将と評価されている。
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