武装親衛隊
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武装親衛隊(ぶそうしんえいたい、独:Waffen-SS ヴァフェンSS)とは、ヒトラーが、政権奪取後、国家唯一の兵器の保有・携帯を許される組織 (Waffen-träger) である陸軍の反逆から、あるいは国内の騒擾から自身を守らせるために設けた、陸軍ではなくまた警察でもない、政治的に信頼できる親衛隊員から成る武装部隊の名称である。名称が公的に認知されるのは1940年12月のことである。
親衛隊の武装組織の発展は、1933年、ゼップ・ディートリヒが指揮するヒトラー個人の警護部隊である Leibstandarte SS Adolf Hitler に始まり、1935年、パウル・ハウサーが親衛隊特務部隊の名称で部隊編制を許され、テオドール・アイケも強制収容所監視部隊のSS髑髏部隊から1939年にSS髑髏師団を編制する。しかし、第二国軍への伸張を憂慮する陸軍に配慮して1942年まで軍事予算ではなく、内務省の警察予算で賄われていた。軍事的な発言権を求める親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは第二次大戦開戦時で僅か三個連隊の親衛隊特務部隊をポーランド戦に出動させた。フランスに大勝した後、1940年12月に親衛隊の武装部隊は武装親衛隊の統一名称の下に「パレードするだけのアスファルト兵士」から「野戦部隊」として認知された。
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[編集] 成立に関与した古参党員
武装親衛隊の成立には、ヒムラーは当然のこととして三人の古参党員がお互いに知らずして関わっていた。
[編集] ゼップ・ディートリヒ
ヒトラーは、政権獲得の1933年に親衛隊中将のゼップ・ディートリヒ (Sepp Dietrich) に首相官邸に立哨する衛兵や外国の賓客を迎える儀仗兵部隊 (Stabswache Berlin) を編成することを命じた。
選抜の条件は、政権獲得前から党員で、にわかナチスでなく、身長1.80m以上、年齢25歳以下、健康で、政治的に信頼できる親衛隊員。同年3月17日に選抜された117名がベルリンに集められ、ヒトラーにのみ忠誠を誓う特別部隊として訓練が開始された (SS-Sonderkommando Berlin)。
この後、ヒトラーの立つところには、必ず黒色の制服を着た屈強な親衛隊員が見られるようになる。同年9月3日のナチ党大会にて同部隊は、Adolf-Hitler-Standarte (アドルフ・ヒトラー・シュタンダルテ)、 同年11月9日のミュンヘン一揆10周年記念式典で Leibstandarte Adolf Hitler (ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー, 略号:LAH)、翌年1934年4月13日に最終的に Leibstandarte SS Adolf Hitler (ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー,略号:LSSAH)と命名され、ヒトラーの名を冠した別格の近衛部隊と広く認知される。このエリート部隊は総統官邸の衛兵の役割 (Wach-bataillon Berlin) から始まり、自動車化連隊となり、更にはSS装甲擲弾兵師団 LSSAH(1942年)、最終的には武装親衛隊の中でも最強と言われる第1SS装甲師団 LSSAH(1943年)にまで発展する。連隊時代の LSSAH は、ラインラント進駐、オーストリア併合、ポーランド戦、フランス戦において自動車化された利点を発揮して目覚ましい働きを見せ、親衛隊特務部隊の面目を施した。
[編集] 名称
Leib-standarte の「Leib」とは身体、個人を意味し、同様な用法として「Leib-arzt」、「Leib-wache」がある。それぞれ「専属医師」「専属ボディーガード」と訳せる。本当に身近な存在を意味する。Standarte はナチ党の編制単位である。例えば、SS-Standarte、SA-Standarte と用いられる。連隊相当の編制単位であるが、陸軍の用語で、また、フランスからの借用語である「Regiment」を避けている。これら二つの単語を合わせた Leibstandarte を敢えて訳せば、ヒトラー個人のシュタンダルテとなる。
Standarte は他に方形の小さな旗章という意味もある。ナチ党大会で旗手が垂直に捧げ持つ70cm 四方の Deutschland Erwache と刺繍された赤い布地の旗章を指す。特徴は黄金の鷹が鉤十字を掴む造形が頭頂部に施されている。同様な旗章は突撃隊も保持する。違いは、銘板の色が親衛隊は黒色、突撃隊は赤色である。武装親衛隊の旗章についてはドイツ語リンク Truppenfahne (Waffen-SS) が詳しい。
[編集] ヒトラー警護部隊
ヒトラー自身を警護する部隊としては他に次のものが設けられた。
- SS-Begleitkommando des Führers(ベルクホーフやヴォルフス・シャンツェや各地をヒトラーが飛び回る時に車列を連ねて随行する部隊、1932年創設)
- Reichssicherheitsdienst (刑事警察出身の親衛隊員から成る警護隊、1935年創設)
- Wachregiment (Heer) (陸軍の衛兵部隊)
ベルリンの総統官邸の警備は Wachbataillon Berlin、Reichssicherheitsdienst、Wachregiment (Heer) が出入口と区域を分担した。
[編集] テオドール・アイケ
政権獲得後に反体制派を収容する強制収容所が数多く建てられ、テオドール・アイケ(Theodor Eicke)は、1933年に収容所監視するSS髑髏部隊(SS-Totenkopf-verbände, 略号:SS-TV)を立ち上げる(Inspekteur der Konzentrationslager und Leiter der SS-Totenkopfverbände, 強制収容所総監兼SS髑髏部隊指揮官)。彼は、新天地を求め、SS髑髏部隊出身者から志願者を募り、SS髑髏師団 (de) を指揮し、フランス戦を皮切りに各地を転戦する。
彼は東部戦線のデミヤンスク防衛線で凄まじいまでの活躍を見せる。友軍から切り離され補給は空輸のみ、と言う状況にもかかわらずアイケと髑髏師団は僅か1個師団の戦力で度重なるソ連軍の攻撃を跳ね返してデミヤンスクを見事守りきる事に成功する。アイケは柏葉騎士鉄十字章を与えられ、デミヤンスク防衛に参加した将兵全員にデミヤンスク防衛章を与えられる。だが1943年2月にアイケは行方不明になった部隊を捜索中に乗機がソ連軍によって撃墜される。もし戦後まで生きていたら他の重鎮2名とは違い強制収容所における人道に対する罪で訴追された可能性が高いので、ある意味幸せな終わりだったのかもしれない。
[編集] パウル・ハウサー
1935年にヒトラーは、陸軍から独立した自由裁量で運用できる武装組織である親衛隊特務部隊の編成を陸軍に認めさせる。
1936年に退役陸軍中将パウル・ハウサー (Paul Hausser) が親衛隊特務部隊総監 (Inspekteur der SS-Verfügungstruppen) に任じられ、彼は指揮官不足を解消するために親衛隊独自の士官学校 (Junkerschule Bad Tölz) を設ける。
また、ナチ党政権への移行期の政治的不安定な時期に対処できるように主要都市に設けられた党の治安部隊(Politische Bereitschaften) を整理、親衛隊特務部隊としてミュンヘンに ドイチュラント連隊 (SS-Standarte Deutschland)、ハンブルクにゲルマニア連隊 (SS-Standarte Germania) を編成した。1938年には併合されたオーストリアのウィーンからデァ・フューラー連隊 (SS-Standarte Der Führer) が加わる。
大戦開始とともにデァ・フューラー連隊を除く、上記の二個の親衛隊特務部隊はポーランド戦に出陣した。1940年にこれら三個の親衛隊特務部隊が統合され、SS特務師団 (SS-Verfügungsdivision) が編成され、フランス戦に活躍した。この師団から後にゲルマニア連隊が引き抜かれ、これを核に新しくヴィーキング師団が編制された。このようにSS特務師団は武装親衛隊の幹となって、次々と枝葉を広げたと自負している (Stammdivision der Waffen-SS)。自身も最終的には第2SS装甲師団 ダス・ライヒにまで発展して敗戦まで健闘した。
親衛隊員ではない一般警察官の秩序警察からも志願者が募られ、1939年9月18日警察師団 (SS-Polizeidivision) が編成され、翌年のフランス戦に出撃した。警察師団の武装親衛隊への正式な編入は少し遅れて1942年のことである。
LSSAH、SS髑髏師団、SS特務師団はフランス戦の試練に耐えて、1940年12月に「親衛隊特務部隊」から「武装親衛隊」という統一名称が与えられた。
[編集] 志願兵制
武装親衛隊は兵員の充足については苦労があった。義務兵役年齢に達した青年男子は居住する軍管区に登録され、一定の比率で陸、海、空の国防三軍に配分されるが、武装親衛隊は志願制であるので、右に掲載の「満17歳になったら、武装親衛隊へ志願しよう !」のポスターで徴募活動する必要がある。武装親衛隊の制服は格好が良いと若者に評判で、また武装親衛隊の入隊期間が義務兵役年限に算入されるので、武装親衛隊に志願する若者が多くいた。ノーベル文学賞作家ギュンター・グラスは1944年当時17歳で志願し第10SS装甲師団 (en) の戦車兵として本土防衛戦を戦ったと告白して世間の耳目を集めた。
志願兵制はしばしば陸軍の徴兵部門との軋轢を起こした。このために、親衛隊は血統基準などの条件を緩和し、陸軍と問題を起こさない外国籍のドイツ人、ゲルマン系のオランダ人、デンマーク人、ベルギー人、ノルウェー人に始まり、非ゲルマン系のフランス人やスラブ人までも対象を拡大した。90万人以上と言われる総兵力の60%は外国人部隊であった。しかし、ゲルマン民族の優越意識は師団名の命名法にも反映されていた。ゲルマン系外国人部隊は xx.SS-Freiwilligen- xx -Division(第 xx SS 義勇 xx 師団)、フランス人、イタリア人、スラブ人部隊は、 xx.Waffen- xx -Division der SS (第 xx SS 武装 xx 師団)と区別されていた。
一部の優秀な部隊は旺盛な敢闘精神を示すべき政治的兵士として優先的に新兵器の供給を受け、最も危険な前線に火消し役として陸軍を勝る働きをしたが、人材の質的、また量的不足から終始陸軍の指揮下に置かれ、戦術的な駒としてしか使われなかった。ルントシュテット攻勢のようにゼップ・ディートリッヒが一部陸軍部隊を指揮することがあったが、ヒトラー暗殺計画に関与した陸軍に不信感を持っていたヒトラーによる采配だったと言われている。
また、ベルリンの戦いで最後まで国会議事堂に立て篭もって戦った部隊はノルトラント師団やフランス人のSS義勇兵達だった。最後まで敢闘した理由の一部は彼らが勇敢だったからだけではなくここで降伏しても故国に送還されて反逆者 (en)として処罰されるという絶望感もあったのではないかと思われる。実際外国人義勇兵の多くは戦後祖国で冷たく扱われ、指導者の中には死刑になった者もいる。
武装親衛隊は規模が拡大するにつれエリート性を維持するのは困難となり、中には「SSの面汚し」と呼ばれる外国人部隊(RONA旅団やディルレヴァンガー旅団など)まで抱え込んでしまうことになる。また強制まがいの手段で編成された部隊や降伏した敵兵から募って編成された部隊の場合には武器の供給すら満足に行われず、訓練の水準も士気も低いままで戦力としてはあまり役に立たなかった。にも関わらず「武装親衛隊神話」が実しやかに語り続けられるのは一握りのエリート部隊が超人的といっても過言ではない戦いぶりを示したことのほかない。
例えば、第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲントは連合軍の猛攻からカーンの町を2ヵ月以上死守し、一気にノルマンディーから内陸に突破する予定だった連合軍はその計画を大きく修正する事を余儀なくされている。しかしその一連の戦いでヒトラーユーゲント師団は死者4000名、傷病者8000名と言う凄まじい損害を被っている。一個師団の兵員数が通常1万4000名から1万6000名前後だと言うことを考えると師団の将兵のほとんどが死傷するという凄まじい損害である。
[編集] 文献
- 通史
- George H.Stein(著)、 The Waffen SS,Hitler's Elite Guard at War 1939-1945,Cornell University Press, 1967
- 芝健介(著)『武装SS:もう一つの暴力装置』、講談社、ISBN 4-06-258039-X、1995年
- George H.Stein(著)、吉本貴美子(訳)『武装SS興亡史:ヒトラーのエリート護衛部隊の実像1939-45』学習研究社、ISBN 4-05-401318-X、2005年
- 渡部義之(編)、(Pictorials)『武装SS全史 I (1933-1942)』学習研究社、ISBN 4-05-602642-4,2001年
- 渡部義之(編)、(Pictorials)『武装SS全史 II (1942-1945)』学習研究社、ISBN 4-05-602643-2,2001年
- 部隊史
- Otto Weidinger(著)、 Division das Reich, Bände I,II,III,IV, Munin Verlag, 1967
- Bundesverband der Soldaten der ehemaligen Waffen-SS e.V. 編、(Pictorials)、 Wenn alle Brüder schweigen, Großer Bildband über die Waffen-SS, Munin Verlag, ISBN 3-921242-5, 1981
- Rudolf Lehmann(著)、Die Leibstandarte, Bände I,II,III,IV/1,IV/2, Verlag K.W.Schütz, ISBN 3-87725-129-3, 1993
- Herbert Meyer(著)、向井祐子(訳) 『ヒトラー・ユーゲント:SS第12戦車師団史(全2巻)』大日本絵画、ISBN 4-499-22678-3、1998年
- James Lucas(著)、 Das Reich,the millitary role of the 2nd SS division, Cassel & Co, ISBN 0-304-35199-7, 1999
- Kurt Meyer(著)、(回想録)『擲弾兵:パンツァー・マイヤー戦記』学習研究社、ISBN 4-05-400984-0,2000年
- ルパート・バトラー(著)戸嶋芳美 他(訳)『SS-Wiking ; 第5SS師団の歴史 1941-45』リイド社、2007年、ISBN 4-8458-3308-5
- 制服
- Walther-Karl Holzmann(著)、(Pictorials)、 Manual of the Waffen-SS, Bellona Publications, 1976
- Francis CATELLA(著)、(Pictorials)、 Le N.S.D.A.P. Uniformologie & Organigramme, ISBN 2-9501712-1-4, 1987
[編集] 関連項目
- 近衛兵
- アラーアクバル師団
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