ジョン・ヒンクリー
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ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・ジュニア(John Warnock Hinckley, Jr. 1955年5月29日 - )は、ロナルド・レーガンアメリカ合衆国大統領を1981年3月30日銃撃した犯人。映画「タクシードライバー」に影響を受け犯行に及んだ。
[編集] 生い立ち
ジョン・ヒンクリーはオクラホマ州アードモアで生まれ、テキサス州とコロラド州で成長した。1973年から1980年までテキサス工科大学で休学と復学を繰り返した。1976年にはソングライターになることを望みロサンゼルスに行くが、成功しなかった。彼の両親に宛てた手紙には身の上の不運を嘆く言葉と金銭の援助を願う言葉でいっぱいであった。彼はコロラド州エバーグリーンの両親の自宅へ戻った。
映画「タクシードライバー」を繰り返し見たヒンクリーは、映画の中で売春婦を演じたジョディ・フォスターへの偏執的な憧れを抱く。フォスターがイェール大学に入学したとき、ヒンクリーは彼女の側に近づくためにコネチカット州ニューへブンに転居し、彼女の自宅のドアの下に自作の詩を書いたメッセージを挟み込んだり、繰り返し電話をかけるなどした。
フォスターとの接触に失敗した彼は、飛行機をハイジャックし彼女の前で自殺して注意を引こうとする計画を考えた。結局彼は歴史上の人物として彼女と同等の立場になるために、大統領の暗殺を企てる。計画実行のため彼は当時の大統領ジミー・カーターを州から州へと追いかけたが、テネシー州ナッシュヴィルで重火器不法所持の罪で逮捕された。無一文になった彼は家に帰り、神経衰弱となり精神療法を受けたが改善しなかった。1981年になると新任大統領のロナルド・レーガンを再びつけねらい始めた。
ヒンクリーはレーガン狙撃事件の直前にフォスターに宛てた手紙を書いた。:
過去7ヶ月にわたって私はあなたに対して多くの詩や言葉、愛のメッセージを送りました。私たちは二三度電話で話したけれど、私はあなたに厚かましく近づいて自己紹介することはありませんでした。...私が今この計画を進める理由はもはやあなたに印象づけるのを待つことが出来ないからです。
1981年3月30日、ワシントンD.C.のヒルトン・ホテルでレーガンがAFL - CIO会議で演説した後にホテルを出ようとしたところで、ヒンクリーはリボルバー銃を六発発射した。弾丸はレーガンの胸部に命中し、報道担当官ジェームズ・ブレイディー、警官トマス・デラハンティおよびシークレット・サービスのティモシー・マッカーシーが負傷した。ヒンクリーは逃亡しようともせずその場で身柄を拘束された。レーガンはジョージ・ワシントン大学病院で緊急手術を受け助かった。ブラディーは頭部に弾丸を受け永久に障害が残った。マッカーシーとデラハンティは軽傷で済んだ。
ヒンクリーの使用した銃はローム RG-14 リボルバー22口径、1と7/8インチの銃身長であった。シリアルナンバーはL731332。
ヒンクリーは1982年の裁判では13の罪で起訴されたが、6月21日に精神異常が理由で無罪となった。弁護側の精神医学上の報告書では彼が精神異常であると報告したが、検察当局の報告書は彼を法律上健全であると宣言した。
ヒンクリーはワシントンD.C.の聖エリザベス病院で拘束された。彼は両親の監督下に1999年に退院を許可され、2000年には監督なしでの釈放が許可された。これらの権利はヒンクリーがフォスターに関する資料を密かに病院に持ち込んでいたことが判明し、無効となった。
[編集] 精神異常での無罪判決に対する反応
ヒンクリーの無罪判決は広範囲の狼狽を引き起こし、下院議会および多くの州で精神異常者の犯罪に対する法律改正につながった。三つの州が弁護を全て廃止した。ヒンクリーの事件に先立つ連邦裁判所での裁判では、死刑裁判の2%未満で精神異常での免罪が使用され、その80%が敗訴した。
[編集] ヒンクリーとブッシュ家の関係
ヒンクリーの父親ジョン・ウォーノック・ヒンクリーは副大統領ジョージ・H・W・ブッシュへの一番の寄付を行っていた。暗殺未遂事件の数時間前に、ヒンクリーの兄弟、スコット・ヒンクリーはエネルギー省より彼の会社ヴァンダービルト・エナジーが不適切な価格設定で警告を受けていた。翌日に予定されていたスコットとニール・ブッシュの夕食会はキャンセルされた[1]。ヒンクリーの家族とブッシュ一家の関係、および病院に向かう途中シークレット・サービスが道に迷ったことなどは事件に関する陰謀説の源となった。ちなみに暗殺は未遂だったが、仮にレーガンが暗殺されれば副大統領のジョージ・H・W・ブッシュが大統領になっていた。