ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョーン・オブ・イングランド (Joan of England, 1165年10月 - 1199年9月4日)は、シチリア王グリエルモ2世の王妃。イングランド王ヘンリー2世と王妃エレアノール・ダキテーヌの三女。イタリア語ではジョヴァンナ・ディンギルテッラ(Giovanna d’Inghilterra)、フランス語ではジャンヌ・ダングルテール(Jeanne d'Angleterre)。
アンジューで生まれ、母の宮廷のあるウィンチェスターやポワティエで育つ。1176年、シチリア王グリエルモ2世が大使を派遣し、ジョーンとの結婚を申し出た。婚約は同年5月に整い、8月にはノーリッジ司教、5代サリー伯ハムリン・ド・ウォーレンらに付き添われてシチリアへ出発した。サン・ジルでは、シチリア王の代理人であるカプア大司教アルフォンソ、シラクサ司教リチャード・パーマーらと、彼女の随行員が面会した。
危険の多い航海ののち、1177年2月に無事シチリアへ到着し、パレルモ大聖堂で結婚式と戴冠式が挙行された。2人の間には1181年に長男ボエモンドが生まれるが、夭折し、あとに子は生まれなかった。1189年にグリエルモが亡くなると、ジョーンは新王タンクレーディに捕らえられた。1190年、ジョーンの兄リチャード1世が聖地への途上イタリアへ上陸した。彼はジョーンと彼女の持参金を返すようタンクレーディに要求した。タンクレーディがこれらの要求を渋る様子をみせると、リチャードはバニャラ城の支配権を奪った。彼は一冬をイタリアで過ごし、メッシーナの町を征服した。たまりかねたタンクレーディは、要求を飲みジョーンを解放した。1191年3月、リチャードの婚約者ベレンガリアを連れ、エレアノール・ダキテーヌがメッシーナへ到着した。
エレアノールは、ジョーンの介抱をするベレンガリアを残して帰国した。リチャードは結婚の延期を決め、婚約者と妹を連れて次の目的地へ向けて出航した。2日すると艦隊はひどい嵐に見舞われ、ジョーンとベレンガリアの乗船する船も破壊された。リチャードは被害もなくクレタ島へたどりついたが、2人は近くのキプロス島へ流されてしまった。キプロスの独裁者で太守のイサキオス・コムネノスは、イングランド王の艦隊が突然現れると、たちまち拿捕した。ジョーンとベレンガリアは無事だったが、リチャードの軍資金もろとも捕らえられてしまった。リチャードはイサキオスを追跡し捕らえ、土牢へ放り込んだ。最終的に艦隊は、アッコンへ到着した。
ジョーンはリチャードのお気に入りの妹であり、政治の駒に彼女を利用しようとはしなかった。彼は一度、サラディンの弟アル・アーディルとジョーンを結婚させ、2人をエルサレムの共同統治者にしようと考えた。しかし、ジョーンはイスラム教徒との結婚を拒み、アル・アディールはキリスト教徒との結婚を拒絶したため、この計画は実現しなかった。同じ十字軍に参加していたフランス王フィリップ2世は、当時最初の王妃が亡くなっていたため、ジョーンと再婚したいと考えたが、これも姻戚関係の近さから実現しなかった(フィリップの父ルイ7世とジョーンの母エレアノールはかつて夫婦だったため)。
1196年、ジョーンはトゥールーズ伯レーモン6世と結婚した。持参金としてクエルシーとアゲナイスの2つの都市がレーモンにもたらされた。彼女はトゥールーズ伯レーモン7世となる息子を翌年出産した。
新しい夫は乱暴に彼女に振る舞い、ジョーンは夫と、夫の荒くれ騎士たちを恐れた。1199年、第3子を妊娠中のジョーンは、サン=フェリックス・ド・カラマンの領主が起こした暴動に、夫の不在時に直面した。彼女は敵の城の攻略を命じるが、裏切りにあい劣勢となった。生命の危機から逃れるため、ジョーンは北へ向かい、兄リチャードの保護を求めた。しかし、リチャードはシャリュ城攻略中の傷がもとで既に死亡していた。ジョーンは、母エレアノールのいるルーアンへ急いだ。トゥールーズからの長旅で疲れきり、避難と医者の手当を求め、ジョーンはフォントヴロー修道院の門を叩いた。既婚の、妊娠した女性の尋常でない願いは聞き届けられた。彼女は出産後に息絶え、死の床で尼僧として出家した。彼女の産み落とした赤子(男児だった)は、洗礼を与えられた後に短い生を終えた(リチャードという名がつけられた)。ジョーンはフォントヴロー修道院へ葬られた。50年後、彼女の長男レーモン7世は、母の隣に埋葬された。