ヘンリー2世 (イングランド王)
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ヘンリー2世(Henry II, 1133年3月5日 - 1189年7月6日)はプランタジネット朝初代イングランド王(在位:1154年 - 1189年)。ヘンリー1世の娘マティルダの子。父はフランスの有力貴族アンジュー伯ジョフロワ4世。「公正なる獅子」の異名をとった。
造化の間違いでできたといわれるほどの巨腹であったが、波乱の生涯を歩み、精力的に活動した。父方と母方からの相続と婚姻により広大な所領を獲得し、ピレネーから南フランスおよびイングランドにまたがるアンジュー帝国を築いたが、晩年は息子たちの反乱に苦しんだ。
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[編集] 遺産継承
ヘンリー1世は、娘のマティルダを次のイングランド王に定めて死去した。この決定に従兄のスティーヴンが異を唱えてイングランド王に即位すると、両者の間に内戦(無政府時代)が続いた。
マティルダの長子であるアンリは、12歳になるとイングランドに渡って母を助け、1147年にマティルダがアンジューに戻ってからも、1149年以降何度かイングランドに渡って戦った。いずれも短期間で戦況にはさほど影響は与えていないが、マティルダ派に希望を与えた。
1150年、既に父ジョフロワが征服していたノルマンディ公位を受け継ぎ、さらに1151年、ジョフロワの死によりアンジュー伯領を受け継いだ。1152年には、フランス王ルイ7世妃だったエレアノール(アリエノール)と結婚し、彼女の相続地アキテーヌ公領を支配下に入れた。
ルイ7世はスティーヴン王の息子ウスタシュと結んでアキテーヌ公領に侵入してきたが、これを防いでいる。1153年にウスタシュが急死すると、スティーヴンと和平協定を結んでイングランド王位の継承者となり、1154年にスティーヴンが亡くなると協定どおりヘンリー2世として即位した。これにより、ヘンリー2世はイングランドの領土を加え、ピレネーから南フランスおよびイングランドまでをも支配するようになった。
[編集] アンジュー帝国
ヘンリー2世は戦争で疲弊していたイングランドを安定させると、さらなる勢力拡大を計った。北はスコットランド王マルカム4世を正式に臣従させ、スティーヴン時代に失われたウェールズの支配を復活させ、アイルランドへの植民を進め、教皇との交渉でその宗主権(アイルランド卿の称号)を入手した。フランスではルイ7世との抗争を続けながら、息子のジョフロワ(ジェフリー)の婚姻によりブルターニュ公領を支配下に置き、さらにトゥールーズ伯に対してアキテーヌ公の宗主権を主張して、これを臣従させた。これらは後にアンジュー帝国と呼ばれるようになる。しかし、この帝国はヘンリー2世が個人として各爵位と領土を所有しているだけで名実共に統合性は無く、ヘンリー2世の死後再び分離し始めることになる。
さらに息子の若ヘンリーをルイ7世の娘マルグリットと結婚させて、当時世嗣がいなかったフランス王位もねらったが、後にフィリップ2世が誕生したため果たせなかった。
ヘンリー2世には娘が3人いたが、長女マティルダ(モード)はザクセン公兼バイエルン公ハインリヒ(獅子公)に、次女エリナーはカスティーリャ王アルフォンソ8世に、三女ジョーンはシチリア王グリエルモ2世に嫁がせ(夫と死別後トゥールーズ伯レイモンと再婚)、これらと結んで神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と対抗した。
[編集] 内政
ヘンリー2世は即位すると諸侯に命じ、内戦時代に築かれた城砦を破棄させ、不当に奪った領土を返還させ、ヘンリー1世時代の権利を回復させた。さらに、戦争で疲弊していたイングランドの行政・司法・兵制を再建し、巡回裁判官を派遣して地方の行政を監視させ、起訴陪審制を定め、土地などの占有権侵奪回復訴訟を令状によって国王裁判所に集中させた。現在に続くイギリスの諸制度の多くは、このときに整えられたのである。
ノルマン・コンクエスト以来、歴代イングランド王はノルマンディー公を兼ねていることが多かったので、有力諸侯がひしめく大陸の領土を巡回するため長くフランスに滞在し、イングランドに滞在することは少なかった。ヘンリー2世もその例にたがわずフランスに居ることが多く、ノルマンディのルーアンが実質的な首都だった。
大陸に比べ領土が確定し、比較的安定した統治が見込めるイングランドは、軍事・財政面で大陸経営を支える役割を担っていたが、イングランド貴族は軍役免除金(スクテージ)を支払って大陸での従軍から逃れることを望んだ。これは独立性の強いジェントリと呼ばれる階層が発生する原因にもなった。
[編集] トマス・ベケット殺害
ヘンリー2世は王による教会支配を強化しようとしたが、かって大法官としてヘンリー2世に仕え、腹心とも呼ばれたカンタベリー大司教のトマス・ベケットは、教会の自由を唱え、事あるごとに王と対立した。
特に、裁判制度の整備を進める上でクラレンドン法を制定して、「罪を犯した聖職者は、教会が位階を剥奪した後、国王の裁判所に引き渡すべし」と教会に要求したが、ベケットはこれを教会への干渉として拒否した。
1170年、王が大司教暗殺を望んでいると誤解した4人の騎士がベケットを暗殺したが、人々はベケットを殉教者とみなし、ローマ教会は即座にベケットを列聖した。ヘンリー2世の立場は非常に悪くなり、修道士の粗末な服装でベケットの墓に額ずき懺悔をするとともに、教会への譲歩を余儀なくされた。
[編集] 十字軍
トマス・ベケット殺害に対する懺悔として、王は十字軍遠征を約束し、当面の資金援助としてテンプル騎士団に騎士200人分の費用を提供した。
1185年、サラディン(サラーフッディーン)の重圧の前に風前のともし火であったエルサレム王国から、救援を要請する使節団がヨーロッパを巡回し、イングランドにもやってきた。エルサレム国王ボードゥアン4世はアンジュー家の分家出身で、ヘンリー2世の従弟に当たったが、病気のため子供がおらず、ヘンリー2世に十字軍従軍とエルサレム王位継承を要請した。しかしヘンリー2世は、人員と資金の提供は承知したが従軍の約束はしなかった。
1187年のハッティンの戦いの後、エルサレムは陥落し、ヨーロッパでは第3回十字軍が勧誘された。息子のリチャードは即座に参加を希望したが、イングランド王ヘンリー2世とフランス王フィリップ2世はお互いに牽制し合い、まず協定を決めることから始めなければならなかった。ヨーロッパ中で有名なサラディン税が徴収されたが、ヘンリー2世は結局聖地には向かわなかった。
[編集] 息子たちの反乱
王妃エレアノールとの間の男子は、早世したウィリアムの下に、若ヘンリー、リチャード、ジェフリー、ジョンの4人がいたが、若ヘンリーを跡継ぎにし、リチャードにアキテーヌ、ジョフロワにブルターニュを名目上分配した。末子のジョンは領土を与えられなかったため、無地(Lack Land)があだ名となった。後にアイルランドを与えられたが、実効支配できず逃げ帰っている。
しかし、若ヘンリーは1170年に共同王として戴冠するが、名目だけで実権はなく、弟たちもそれぞれの領土の実権を望み不満をいだいていた。また、若ヘンリーは教育係だったトマス・ベケットの暗殺に怒っており、ヘンリー2世のジョンへの偏愛にも不安を抱いていた。アンジュー帝国の弱体化を望むフランス王や、ヘンリー2世と不仲になった母エレアノールの扇動もあり、1173年に若ヘンリーは母や弟たちとともに父に対し反乱を起こす。戦いは父王に有利に進み、1174年に和解するが、不満は残ったままで、その後も息子たちはフランス王と結んで不穏な動きを見せた。
1182年に若ヘンリーと父王は再び和解するが、リチャードは兄に対する臣従の礼を取ることを拒んで、アキテーヌに戻り反抗したため、若ヘンリーとジョフロワがリチャードを攻撃する騒ぎになった。1183年に若ヘンリーが亡くなり、リチャードが後継者となるが、アキテーヌ公位をジョンに譲るよう言われて再び反乱を起こし、今度はジョンとジョフロワがリチャードを攻撃するが、1184年に和解した。ジョフロワはアンジュー伯領を要求し、拒絶されると封建主君であるフィリップ2世(ルイ7世の跡を継いだ)に身を寄せ、父に反抗したが、1186年に馬上槍試合の怪我で亡くなっている。
[編集] 孤独な死
1188年にヘンリー2世とフィリップ2世の争いのさなかの和平交渉中、リチャードは父親の前でフィリップ2世に臣従の誓い(オマージュ)をし、父を裏切った。既に健康を害していたヘンリー2世は精神的ショックに耐えられず、シノン城に撤退し、さらに寝返った者の名簿の先頭に最愛の息子ジョンの名があるのを見て、最後の気力を失い、「もう、どうとでもなれ、自分も世界も」とつぶやき、まもなく亡くなった。息子の中で最後を看取ったのは、庶子で僧籍にあったジョフロワ(後のヨーク大司教)のみであった。
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