ジョーン・フォンテイン
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ジョーン・フォンテイン(Joan Fontaine,1917年10月22日 - )は、日本で生まれた米国籍の女優。両親ともイギリス人。1943年4月に米国籍を取得した。オリヴィア・デ・ハヴィランドは実姉。
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[編集] 生涯
父親が東京帝国大学で教授をしていたため、姉のオリヴィアと同じく、東京虎ノ門で生まれる。自伝「No Bed for Rose」によれば、自宅は現在のホテルオークラ別館あたりにあり、自宅はのちスウェーデン大使館として使われた。現在は大使館の敷地の一部となっている。父ウォルターの兄は、デハビランド航空創業者、ジェフリー・ハヴィランド。
ジョーンは虚弱体質で、2歳のとき医師に転地療養を薦められ、母とイタリアに向かった。だが、症状が悪化し、アメリカに渡り、カリフォルニア州のサラトガで育つ。8歳のとき両親が離婚。
14歳のとき父が元メイドの日本女性と再婚したため、父を訪ね再び日本に戻り、3年滞在。アメリカン・スクールと聖心女子学院に通った。
健康を回復し、アメリカに帰国。1935年に舞台デビューし、同年にRKOと契約して映画にも出演するようになる。「風と共に去りぬ」の有名なスカーレット選びにも参加し、「スカーレットが無理ならメラニーでも」と猛烈に売り込みを図るも姉に奪われ、自殺まで考えた。だが「レベッカ」の映画化を知り、大プロデューサー・デビッド・O・セルズニックに売り込み、同作のヒロインに収まった。
清楚な美貌とその震える肩で虐げられるメロドラマのヒロインを得意とした。しかし姉と親しかった男と結婚したり、計4度の離婚暦があるなどエピソードにも事欠かない。1941年、アルフレッド・ヒッチコックのスリラー「断崖」でアカデミー主演女優賞を受賞した。
[編集] エピソード
3歳の時の知能検査では160であった。
姉のオリヴィア・デ・ハヴィランドとの仲の悪さ(というか確執)は有名である。決して姉が出席する会合には参加しないし、たまたま出会っても決して口を聞こうとはしない。
彼女は、パイロットの免許を持ち、熱気球でのチャンピオンでもあり、優れたライダーでもあり、カジキ釣りで賞をもらい、またホール・イン・ワンを経験した優れたゴルファーでもあり、一流の料理人でもあり、インテリア・デザイナーの資格も持っている。
[編集] 結婚歴
- Brian Aherne (1939 - 1945)
- William Dozier (1946 - 1951)
- Collier Young (1952 - 1961)
- Alfred Wright, Jr. (1964 - 1969), 雑誌編集者。
[編集] 主な出演作品
- レベッカ Rebecca (1940)
- 断崖 Suspicion (1941)
- 永遠の処女 The Constant Nymph (1943)
- ジェーン・エア Jane Eyre (1944)
- 忘れじの面影 Letter from an Unknown Woman (1948)
- 皇帝円舞曲 The Emperor Waltz (1948)
- 旅愁 September Affair (1950)
- 豪傑カサノヴァ Casanova's Big Night (1954)
- 条理ある疑いの彼方に Beyond a Reasonable Doubt (1956)
- 地球の危機 Voyage to The Bottom of The Sea (1961)
[編集] 参考文献
- 外国映画俳優全集・女優編 キネマ旬報社 1987年
カテゴリ: アメリカ合衆国の俳優 | イングランド系アメリカ人 | 1917年生