スターリン批判
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スターリン批判は、1956年、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが発表した報告と、それに基づく政治路線のこと。そこではスターリン執政期における秘密の一部が暴露され、個人崇拝が批判された。
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[編集] 前史
1939年、スターリンは次のように述べた。 「社会主義ソ連邦では既に階級は存在せず、抑圧機構としての国家も存在しない」。 しかし、数多くのソ連国民が、シベリアをはじめ各地の政治犯強制収容所で強制労働に従事していた。
第二次世界大戦後も、スターリンは国際共産主義運動に君臨していた。 1951年、日本共産党が所感派と国際派に分裂したときも、所感派に軍配を上げ(スターリン判決)、国際派は涙を飲むより他になかった。
[編集] スターリン批判
スターリンの死去から3年が経過した1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、第20回党大会において、外国代表を締め出し、スターリンの個人崇拝、独裁、粛清の事実を公表した。特に、全領土で吹き荒れた大粛清の契機となったキーロフ暗殺に至る陰謀について詳細に明かされた。フルシチョフは、全ソ労評議長として、スターリンに直接仕える立場にあった。
すでに西側の共産主義シンパからソ連とスターリン体制への失望が表明されることはあったが、これにより、スターリンは国際共産主義運動の玉座から決定的に引き摺り下ろされる形となった。数年後、もう一度フルシチョフによるスターリン批判が行われた。この結果スターリンの遺体は撤去され、燃やされた。時は流れゴルバチョフも在任中にスターリンを批判した(ついでにレーニンも)。
ただし、この演説の内容自体はフルシチョフのオリジナルではなく、政敵であるマレンコフが考え出した物であり、フルシチョフがそれを横取りしたということも指摘されている。また、フルシチョフは自分がスターリンの下でどれだけ忠実に働いたのかを隠していた。大粛清に積極的に加担し、自分の出世に利用した点も考慮する必要があるだろう。
スターリン神話が崩壊したとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視するという恐怖支配の構図はソ連崩壊まで変わらなかった。
[編集] スターリン批判の影響
フルシチョフのスターリン批判の直後、ハンガリーで民主化を求める市民革命(ハンガリー事件)が起きたが、ソ連軍が出動し、最終的に鎮圧された。
しかし、西欧共産党には、スターリン批判は自己に直接影響を及ぼすものとは受け止められなかった。日本共産党も、スターリン批判と共に打ち出された平和共存の学習の推進を訴えただけだった。
スターリン批判は中国(中華人民共和国)との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント)を北京の毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、以降中ソ関係は急速に悪化する事となる。代わりに中国は、アメリカとの関係を修復していった。
朝鮮民主主義人民共和国においては、すでにスターリン型の支配体制を築き上げて、その正統性を人民に要求しつづけていた金日成政権が、中国同様フルシチョフ路線を修正主義として強く批判した。これはソ連との関係が冷却化する契機となった。実際にフルシチョフによる消費財生産重点化政策をきっかけに金日成派の執権は脅かされていた。一方、延安系とソ連系の幹部がスターリン批判を受けてクーデターを計画したが失敗に終わり、粛清された(8月宗派事件)。
日本において、スターリン批判を重く受け止めたのはトロツキストであった。これを前後して、日本のトロツキストは、新しい前衛党=新左翼の結成に進んだのであった。