8月宗派事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
8月宗派事件(はちがつしゅうはじけん)とは、朝鮮民主主義人民共和国において1956年6月から8月にかけて起こった政変。事件の経緯については明らかでない点が多い。なお、朝鮮語の「宗派」は日本語の「分派」を指す語である。
[編集] 事件の経緯
同年2月、ソ連にてフルシチョフは第20回党大会においてスターリン批判と呼ばれる秘密報告を行い、スターリン期における様々な陰謀を曝露することでスターリン期の様々な政策を、個人崇拝批判というかたちで批判した。このことは、ソ連の衛星国すべてに大きな影響を与えた。
北朝鮮でも同年4月に開かれた朝鮮労働党第3回大会においてソ連から参加したブレジネフは北朝鮮にフルシチョフの路線に協力することを求めた。
同年6月、金日成はソ連・東ドイツ・ルーマニア・ハンガリー・ポーランド・チェコスロバキア・ブルガリア・アルバニア・モンゴルを歴訪し、経済援助を得ようとしたが思うほどの経済援助を得ることはできなかった。この間に国内では先述したスターリン批判を受け、延安派とソ連派が金日成の独裁体制を修正するためにクーデターを計画したと言われている。一部には武装蜂起の準備もあったと唱える者もいるが、情報源など確証が得られない。いずれにせよ、後の動きと収束から、延安派の徐輝(朝鮮職業総同盟委員長)・尹公欽(商業相)・崔昌益(副首相兼財務相)、ソ連派の朴昌玉、金承化(建設相)、朴義ワン(副首相兼国家建設委員長;ワンは王+完)などが中心的人物だったことがわかる。
金日成は、政変が起こることを察知し直ちに帰国した。金日成が察知したルートについてはいくつかの説がある。クーデター首謀者らが金日成が留守の間の首相代理である崔庸健に協力を要請したところ、崔庸健が計画の存在を金日成に通知した、クーデター首謀者らがソ連大使館に協力を要請したところ、ソ連大使館から崔庸健を経由して金日成に伝わった、などの説がある。
金日成帰国後の8月30日から8月31日にかけて、朝鮮労働党中央委員会全体会議が開かれ、ここで延安派やソ連派の幹部たちは金日成の個人独裁路線や重工業優先政策を批判した。しかしこの批判は思うように支持を得られず、失敗に終わった。
[編集] その後の経過
金日成は関係者を直ちに逮捕しようとしたが、彼らは批判が失敗に終わったと悟り直ちに中国へ亡命した。国内に残留した延安派とソ連派の人々は一旦は追放されるが、中国とソ連の介入により復権する。しかし、その後再び金日成は彼らを粛清してしまう。ソ連派の幹部の中にはソ連へ帰国したものも多い。
延安派で駐ソ大使の李相朝はこの事件に協力したとされ、直ちに現地でソ連に亡命した。これは朝鮮民主主義人民共和国で最初の外交官の亡命事例である。
この事件により、延安派とソ連派はほぼ粛清され、粛清開始前に懐柔されていた金昌満(延安派)・南日(ソ連派)など少数の幹部だけが生き残ることができた。そして金日成の満州派(国外抗日パルチザン派)と甲山派(国内抗日パルチザン派。のちに延安派・ソ連派同様、粛清される)が権力をほぼ独占するようになった。