東欧革命
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東欧革命(とうおうかくめい)とは、1989年にソ連の衛星国であった東欧諸国において共産党政権が連続的に崩壊した出来事。
その時期的な範囲については、ポーランドおよびハンガリーにおける非共産政権の誕生に始まり、11月のベルリンの壁崩壊、チェコスロヴァキアのビロード革命を経て、12月のルーマニアのチャウシェスク体制の崩壊に至るまでとする、狭義的な捉え方と、エストニア、ラトビア、リトアニアの「バルト3国」のソ連からの独立、ソ連崩壊、ユーゴスラビア紛争を含める広義的な捉え方がある。なお英語版の記事(en:Revolutions of 1989)はバルト3国、ソ連、ユーゴスラビアでの出来事も含まれている。
「東欧革命」という呼称については、「東欧民主化革命」(事件直後はこちらの名称のほうが一般的であった)もしくは1848年革命を指す「諸国民の春」と言う言葉をもじって「東欧の春」と言う表記も見られる。本項目においては、歴史学の分野で一般的となりつつある「東欧革命」を表題とした。
目次 |
[編集] 過程
東欧革命 |
ポーランド民主化運動 |
ハンガリー民主化運動 |
汎ヨーロッパ・ピクニック |
ベルリンの壁崩壊 |
ドイツ再統一 |
ビロード革命 |
ルーマニア革命 |
簡単な過程を、なるべく時系列通りになるように記す。個々の事件についての詳細は右テンプレートを参照されたい。
[編集] はじまり
そもそもの起こりは1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが、活力を失った体制のペレストロイカ(再建、建て直し)に着手し、外交面においても従来のソ連の外交政策の転換を図った事にある。
ゴルバチョフの外交に対する新方針は、一つは冷戦体制に基づいた旧来の外交政策を緊張緩和の方向に転換する(新思考外交)事。もう一つは従来のソ連が持っていた東側諸国の共産党政権に対する指導性、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」の放棄であった。この方針は1988年のベオグラード宣言の中にも示され、またフランク・シナトラのヒット曲「マイ・ウェイ」から「シナトラ・ドクトリン」と呼ばれた。
[編集] 東欧諸国の変化
「ブレジネフ・ドクトリン」の放棄に対する東欧諸国の反応は様々であった。その中でポーランドとハンガリーは、情勢の変化を巧みに読み取り、また国内の体制変革の要求、ソ連に対する不信感から、この機会を利用して積極的に国内改革に取り組もうとする動きが出てきた。
[編集] ポーランド民主化運動
この中で、非共産党系勢力の活動の自由化と、自由選挙を初めて行ったのはポーランドであった。自由選挙の結果レフ・ワレサ率いる「連帯」への穏健的な政権移譲が行われた。
- 詳しくは→ポーランド民主化運動を参照
[編集] ハンガリー民主化運動
ハンガリーの民主化への模索は1980年代中ごろから始まっていた。ハンガリーの民主化運動で最も特筆すべきはハンガリーとオーストリア間の国境を開放したことである。現在では鉄のカーテン撤去を語らずに東欧革命を語ることは出来ない。これによって汎ヨーロッパ・ピクニック、更にはベルリンの壁崩壊が引き起こされるなど、革命が「東欧」全体に波及する端緒となったからである。
- 詳しくは→ハンガリー民主化運動を参照
[編集] 汎ヨーロッパ・ピクニック
1989年8月19日。開放されたハンガリー・オーストリア国境を多数の東ドイツ市民が集団越境し、オーストリア経由で西ドイツに亡命した事件。この事件後多数の東ドイツ市民が西ドイツへの脱出を試みて、大挙してハンガリー、チェコスロバキアに押しかけた。ベルリンの壁の持つ意味は相対的に低下し、11月に歴史的なベルリンの壁崩壊をもたらすきっかけとなった事件。
- 詳しくは→汎ヨーロッパ・ピクニックを参照
[編集] ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一
1989年11月9日夕刻、東ドイツ政府は突如として東ドイツ市民の旅行を自由化すると発表した。これによりベルリンの壁は崩壊し、その影響は全世界史的に広まった。ベルリンの壁崩壊を受けて翌年の1990年10月3日に東西ドイツは統一された。又、ベルリン問題に一応の決着を見たためマルタ会談では冷戦の終結が宣言された。そして何よりチェコスロバキアやルーマニアにおいて、民主化を要求する市民たちを大いに勇気付けた。
[編集] ビロード革命
ベルリンの壁崩壊を受けて東欧の共産党政権の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキアでは、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキア国民はデモやストライキを頻発させたが、この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指して「ビロード革命」と言う。
- 詳しくは→ビロード革命を参照
[編集] 1989年ルーマニア革命
ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、当初から国内の改革に全く否定的で共産党が政権の座に固執し続けたルーマニアでの民主化革命は、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、指導者であったニコラエ・チャウシェスクが処刑されて幕を下ろした。
- 詳しくは→1989年ルーマニア革命を参照
[編集] 革命の原動力
[編集] 文化背景の違い
すでに1970年代から一部の知識人や反体制派の間で西でも東でもない「中欧」という空間が注目を浴びていた。たとえばミラン・クンデラは1984年のエッセイ「誘拐された西欧――あるいは中央ヨーロッパの悲劇」(邦訳は『ユリイカ』掲載)において「最小限の空間における最大限の多様性」である「中欧」と、「最大限の空間に最小限の多様性」であるロシア/ソ連とを対照させ、共産党体制が「中欧」とされる地域にとって異質なものであることを指摘した。
革命の後にポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチアなど「東欧」と呼ばれていた国々は揃って「自分たちは『東欧』ではなく、『中欧』であると主張し始めた。以降それらの国々の主張に従って彼らを旧共産圏で、ヨーロッパの東側にあったことから単純に「東欧」と呼ぶのをやめ、「中欧」と呼ぶ試みがはじめられている。これは現在でも東欧と語られることの多いロシアと比べても文化的背景が異なっていたことを示している。これは宗教的な面で大きく、これらの地域は同じスラブ人が多く住みながらも
- ロシア 東方正教会(ロシア正教)
- ポーランド カトリック
- ハンガリー カトリック
- 東ドイツ ルター派
- チェコスロバキア カトリック(一部ルター派)
- ルーマニア 東方正教会(ルーマニア正教会。ただし国内には、非正教会のマジャル人もいる)
- クロアチア カトリック
- スロベニア カトリック
- リトアニア カトリック
- エストニア ルター派
- ラトビア ルター派
とルーマニア以外では大きく異なっており、そのルーマニアでさえ総主教座は異なっているため宗教的なメンタリティーはロシアから独立していると言ってもよい。特にポーランドにおける初期の状況ではこの宗教性の違いが反ロシアの大きなナショナリズムを生み出すことになった(ポーランド民主化運動参照)。
また、これらの国は歴史的に見て広義的なドイツ語圏の中に含まれている。中でもスロベニア等では現在も公用語としてドイツ語が使われている。歴史的に見てもポーランド南部、ハンガリー、チェコスロバキア、クロアチア、スロベニア、そしてルーマニアのトランシルヴァニアは1918年まで、オーストリア・ハンガリー帝国の領域であったし、東ドイツ、ポーランド西部はドイツ帝国の領域であった。これらの地域にすむ各民族は個々の民族主義を主張しながらも、同じドイツ語圏にあって非常に似通った考え方をしていた事がわかっている。この似通った考え方の一つが、自分たちはヨーロッパ史に参加しているという意識である。
このような彼らに共通する経験が「中欧」と言う意識、「ロシア」とは異なると言う意識。そして「ロシア的」なものは「ヨーロッパ的」ではない。という意識が芽生えてくる。 これらの国々は革命後漏らさずにNATOに加盟し(もしくは「平和のためのパートナーシップ」を結び)、EUに加盟しようとしているが、ここでも「ヨーロッパへの復帰」が強く意識されている。
[編集] テレビの力
この革命の波及にはテレビが大きな役割を果たした。ほぼすべての出来事がリアルタイムでニュースとして世界中に配信され、同時代人はこれを共通の体験として受け止めることが出来た。
しかし、東欧各国の共産主義政府は自分たちで国営放送をコントロールしていた。普通に考えれば自分たちで国民に与える情報をコントロールできるのだが(だからこそ、ルーマニア革命では革命勢力が真っ先に国営放送を占拠する事態となった。)、それにもかかわらず、これら一連の革命を国民に伏せておくことは出来なかった。国外からの電波、特に西側の衛星放送が東側でも視聴できたことが、今日では明らかになっている(エストニアは、資本主義国家のフィンランドのテレビ放送を見ることが出来た)。これが「ベルリンの壁崩壊」を発端として、その年の年末までの短期間に東欧のすべての国の共産主義政権が連鎖反応的にバタバタと倒れていったカラクリとなっている。
こうして次々と入ってくる、周辺諸国での変革が東欧での革命の次の引き金になったのである。
[編集] 革命の影響
[編集] 冷戦の終焉
革命の影響は、体制間抗争という側面を持った冷戦の終結をもたらした。特にベルリンの壁崩壊によって冷戦の最大懸案事項になっていたベルリン問題の解決に一定の目処が付いたのが理由としては大きい。1989年12月3日、マルタにおいてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとソ連共産党書記長(当時)のミハイル・ゴルバチョフが会談を行い、冷戦の終結が宣言された(マルタ会談)。冷戦の終結の意義は世界史的に見てもきわめて大きい。
[編集] 歴史学の混乱
「ベルリンの壁崩壊」、「冷戦の終結」、「ソ連の崩壊」のトリプルパンチは同時代人にとって価値観の大逆転であった。「核」の恐怖に怯えながらも、冷戦という対立構造は歴史学に「安定した時代」として安寧をもたらし続けていたのである。しかしこの「安定」が崩れると、その混乱は大きく、特に「近代」という枠組みのあり方に大きな議論を呼んだ。フランシス・フクヤマの言う「歴史の終焉」という考えもこの一連の中から出てきている。現在においては「冷戦の終結」までが「近代」という枠の中で捉えられているが、それ以前から行われてきたPostmodernという近代を批判的に捉える運動すら近代の枠組みに入ってしまうという混乱を招いた。つまり歴史学は、もう一度歴史の再点検を迫られたのである。
[編集] 関連項目
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