ダグラス・グラマン事件
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ダグラス・グラマン事件(ダグラス・グラマンじけん)とは、1978年2月に明るみに出た戦後日本の汚職事件。
[編集] 事件の経緯
- 1968年
- 1969年
- F-4Eを元にしたF-4EJの採用決定。
- 1978年
- 12月25日 - 米国証券取引委員会(SEC)、MD社が自社戦闘機の売込みのため、1975年に1万5000ドルを日本政府高官に渡したことを告発。
- 1979年
- 1月4日 - 米SEC、グラマン社が自社の早期警戒機(E-2C)の売込みのため、日本の政府高官(岸信介・福田赳夫・中曽根康弘・松野頼三)らに代理店の日商岩井を経由して、不正資金を渡したことを告発。相次ぐ証言を受け、東京地検特捜部は、米SECに資料提供を要請し捜査を開始。
- 1月30日 - 衆議院ロッキード問題調査特別委員会が「航空機輸入調査特別委員会」と改称。特別委員会は、ダグラス・グラマン疑惑はもちろん、航空機売込みに関わる、全ての疑惑を調査することになる。
- 2月1日 - 日商岩井航空機部門担当常務が、赤坂の同社本社ビルから遺書を残して投降自殺し、キーマンの自殺に捜査は行き詰まる(この自殺は、当時のノンフィクション番組で取上げられ、詳細が公開された。その内容は、飛降に際して、心臓を一刺し高い窓をよじ登り飛び降りる事は不可能と判断し、何故、最終的に警察は簡単に自殺と判断したのだろうと疑問を投げかけていた)この他に吉原公一郎氏も念密な医学的根拠を挙げた上で他殺説を主張する著書を書いている。
- 2月14日 - 衆議院予算委員会で日商岩井・海部八郎副社長を証人喚問。「記憶に無い」の答弁を繰り返す。海部が宣誓書に署名をする際、手が震え字が書けない様が、テレビ中継されていた。喚問では、海部副社長と田中六助自民党衆議院議員との関係が問質され、海部は田中と接触は全くなかったと、国会で嘘の証言をした。
- 3月14日 - 日商岩井航空機部門部長・次長を外為法違反容疑で逮捕。
- 3月22日 - 参議院予算委員会で日商岩井・海部八郎副社長率いる海部軍団と対立する日商岩井・山村謙二郎副社長と井上潔専務が証人喚問において証言。衆議院予算委員会における海部証言について、山村謙二郎副社長は「錯乱していた」と証言した。
- 4月2日 - 海部八郎・日商岩井前副社長を外為法違反容疑で逮捕。同日、参議院予算委員会航空機疑惑集中審議中に海部逮捕の報を受け、伊藤栄樹法務省刑事局長(後の検事総長)は、「捜査の要諦はすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉しなければならない」と述べ、政界中枢への波及を示唆した(「巨悪を逃さず」はこの年の流行語となる)。
- 4月16日 - 疑惑捜査の総指揮官である検事総長が定年により、神谷尚男から辻辰三郎に交代。神谷は「サヨナラ記者会見」で「検察の捜査力はまだまだ頼むに足る。私は事件途中で去るが、背後に検察の意気込みを感じながらやめるのはうれしい」と会見。
- 4月24日 - 海部元副社長を議院証言法違反容疑で再逮捕。
- 5月15日 - 検察首脳会議において、「政治家の刑事責任追及は、時効、職務権限のカベにはばまれ断念する」ことを確認し、ダグラス・グラマン事件捜査終結を宣言。日商岩井関係者のみ3名を起訴。
- 5月24日 - 衆議院航空機輸入調査特別委員会で松野頼三元防衛庁長官を証人喚問。松野は5億円の授受を認めるも、既に時効が成立しており刑事訴追は逃れた(その後、同年7月25日衆議院議員を辞職し自民党を離党、同年10月7日の第35回衆議院議員総選挙では無所属で出馬するも落選した。1980年6月22日の第36回衆議院議員総選挙に再度立候補し、当選、自民党に復党した)。
[編集] 噴出する疑惑
- 捜査の過程で、海部が国内航空会社社長に宛てた1965年7月24日付手紙のコピー、いわゆる「海部メモ」が発見された。ハワイ・某ホテル客室の備付け便箋に書かれていたその内容は、岸と同秘書、海部らが話し合い、F-4EJ導入が決まったこと、見返りに岸へ2万ドル払ったこと、が記載されていた。しかし、岸に対しては、同メモ発見の時点で、時効成立により捜査は打ち切られ、東京地検は岸に事情聴取すらしなかった。
- これまでも、岸に関しては、多くの航空機疑惑関与(第1次FX問題)が指摘されていた。1957年、国防会議決定の第一次防衛力整備計画に基づく、旧式化した自衛隊の主力戦闘機F-86Fにかわる超音速戦闘機300機の機種選定について、当初、防衛庁は次期戦闘機をロッキードF-104に内定していたのが、岸内閣成立後の1958年4月、日本政府はグラマンF11Fを採用決定した。この見返りとして、岸に対して、グラマン社が納入1機に対し1000万円、最大30億円のマージンを支払われたとされる疑惑である(資金は、その後の総選挙費用と総裁選対策費として支払われたのではないかと言われる)。しかし、実際に1962年から後継主力戦闘機として配備されたのは、一旦覆ったはずのF-104Jである。
- 1976年、グラマンF-14とMDF-15によるFXで、F-15が採用決定されていたため、当然疑惑が向けられたが、捜査終結に伴いF-14及びF-15は一切捜査されることはなかった。
- 官民問わず、航空機選定の度に、数々の疑惑が発生する為、大平首相の私的諮問機関「航空機疑惑問題等防止対策協議会」が再発防止として、1979年9月に政治資金規正法改正など14項目を提言する。しかし、自民党内の反発で、具体化はなされなかった。
- その後の1980年7月24日 東京地裁判決で海部八郎に懲役2年執行猶予3年の判決。被告原告共に控訴せず、同年8月7日確定。