ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ
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ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名:北川源太郎、ウィルタ語名:Dahinien Gendanu / Daxinnieni Geldanu, 1926年(大正十五年)頃 - 1984年(昭和五十九年)7月8日)は樺太生まれのウィルタ(オロッコ)民族。戦時中は特務機関員として日本軍に協力した。終戦後はシベリアにて抑留され、帰国後は北海道網走市に移住して肉体労働で生計をつないだ。自民族の研究家として活動し、戦後ウイルタ運動のリーダーとして北方少数民族の復権運動に尽力した。その後彼の呼びかけにより網走に作られたウィルタ文化資料館「ジャッカ・ドフニ」の初代館長となった。ダーヒンニェニ・ゲンダーヌという名前は「北の川のほとりに住む者」を意味する。
[編集] 経歴
ウィルタの呪者の家系に生まれ長老であった義父北川ゴルゴロと同様に遊牧と狩猟で生活を営んでいた。
1942年(昭和十七年)日本陸軍の特務機関は戸籍が未整備だった樺太の少数民族の若者へも召集をかけ、ソ連軍の動きを探るための諜報活動や軍事訓練へと当たらせた。当時敷香町在住のオロッコ族22人ギリヤーク族(ニブヒ)18人の計40人もまた日本名を付けられ諜報部隊に所属した。彼ら「北方戦線の秘密戦士」の中の一人がゲンダーヌであった。
ソ連の参戦後、10年近くシベリアに抑留され、敷香特務機関配下60人のうち59人が強制労働にて死亡。ゲンダーヌ一人だけが生き残った。しかしその後ソ連の占領下の樺太へ帰島することも叶わず父と共に北海道網走へ移住したが国籍は与えられず、ウィルタであることを隠して差別から逃れた。肉体労働で生計を繋ぎつつ、少数民族の軍人恩給支給問題を国へ訴えた。1976年この問題は国会において議論されたが、当時の少数民族に日本国籍はなく兵役義務もなく非公式の令状にて召集されたとして、彼らに戦後保障が与えられることはなかった。
しかしながら彼の告発をきっかけに1975年に「オロッコの人権と文化を守る会」(翌年ウィルタ協会と改称)が発足。資料館の建設、慰霊碑の建設、樺太の同胞との交流という3つの願いを彼は抱いた。 北方少数民族の文化を残したいという彼の呼びかけにより780万円の募金が集まり、1978年網走市が提供した土地にウィルタ語で 「大切な物を収める家」という意味のジャッカ・ドフニと名付けられた資料館が完成し、その館長となった。資料館にはウィルタの他ニブヒ、樺太アイヌなどの民族の宗教・生活用具、衣装など約600点の資料を収蔵・展示し、踊りの実演なども行われる。
また、1982年5月には網走市天都山に合同慰霊碑「キリシエ」が建立された。
こうして彼は民族の証しを残しウィルタの誇りを伝える夢を叶えたが1984年に急逝。2001年頃よりジャッカ・ドフニは来館者の減少により改修費用の捻出が出来ずに存続の危機にある。
[編集] 関連書籍
- ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ(ISBN 4-19-801474-4)田中了/著、D・ゲンダーヌ/口述、現代史出版会
- サハリン北緯50度線 続・ゲンダーヌ(ISBN 4-87648-097-4)田中了/著、草の根出版会