特務機関
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特務機関(とくむきかん)は、軍隊における特殊軍事組織をいい、諜報・宣撫工作・対反乱作戦などを占領地域、或いは作戦地域で行う。またそれらに類される「特殊任務」を遂行するための組織もより広義には含む。任務によっては諜報機関と同一とみなしうる。さらに組織の性格上、その存在は公にされなかったことが多かった(もしくは表向きには偽った看板を掲げた組織として存在した)ため、その実態は関係者を除いて一般に不明である場合が多い。
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[編集] 定義
第二次世界大戦期やそれ以前の日本陸軍(以下、陸軍)では元々、特務機関とは前述のような任務を行う組織を称したものと異なり、軍隊(軍、師団、旅団、連隊など)と官衙〔かんが〕(陸軍省、参謀本部、教育総監部、技術本部、製造廠など)と学校(陸軍士官学校など)といった通常の3つの区分に属さない区分、つまり元帥府・軍事参議院・侍従武官府・皇族附武官・外国駐在武官・将校生徒試験委員等をまとめた区分に与えられた呼称であった。
しかし、1918年のシベリア出兵以降、陸軍では特殊任務にあたる実働グループを特務機関と呼び習わすようになった。本項ではこの系統に属する狭義の特務機関について主に詳述する[1]。
このように広い意味で、さらに例えば第二次世界大戦期やそれ以前の時期に限らずに、また場合によっては日本以外の国や団体が設置した組織についても用いられる。ここでは陸軍での存在と位置づけが歴史的に明確な組織以外はできる限り括弧付で「特務機関」と記し、合わせて述べることとする。
[編集] 第二次世界大戦期とそれ以前の日本の陸軍における特務機関
1918年のシベリア出兵に際して、従来からの純粋な作戦行動以外に生じた種々の複雑困難な問題に対して,1919年、現地における情報収集・謀略工作を担当する機関を設けたのが特務機関と称された組織の始まりであった。その名称の発案者は当時のオムスク機関長、高柳保太郎陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳とされる。任務は統帥の範囲外の軍事外交と情報収集とされた。初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部附として発令され、その業務は軍参謀長の監督を受けた。
はじめ、ウラジオストク、ハバロフスク等各地に設置されたが、戦局の推移にともない改廃・移動が度々なされた。シベリア撤退後はそのままハルピン特務機関を中心にソ連各地で情報収集にあたっていた。1940年にそのハルピン特務機関は関東軍情報部に、それ以外の各特務機関は情報部支部へと改編された。それら11支部あった情報部支部は、1945年8月には特別警備隊に改編され、終戦を迎えるに至った。
また明治期後半から、陸軍は中国各地の地方政権や軍閥に軍事顧問(団)を派遣した。それらの軍事顧問と配下の機関員ら含む、組織全体でもって「特務機関」として活動していた。例えば袁世凱政権・張作霖政権等に軍事顧問が派遣されていた(形の上では招聘)。また、東南アジア各地においても中国における軍事顧問と同様の軍事顧問という形での「特務機関」が存在し、それらは反英(米・蘭)運動を煽動する各種の工作活動を行った。それら「特務機関」に関与した日本人の中には、敗戦後においてもなお現地に残り、被植民地民族の独立運動に際し、有形無形の支援を行った例も一部においてあった。例えばインドネシア独立戦争におけるPETA(祖国防衛義勇軍)に対するそれである[2]。
[編集] ハルピン特務機関
ハルピン特務機関は1917年のシベリア出兵時に関東都督府陸軍部附として黒沢準少将が駐在したのが始まりで、イルクーツク、ウラジオストク、アレクセーエフカ、満州里、チチハル等に駐在していた情報将校グループらを統轄した。機関は一時、浦塩派遣軍隷下に移ったが、のち再び関東軍司令部隷下に復帰し、1940年関東軍情報部に改編された。機関長は情報部長となり、その他の在満機関を支部に改編し統轄した。
[編集] 関東軍情報部
- 関東軍情報部(ハルピン)
[編集] 対英インド独立工作における特務機関
対米開戦前において、日本の陸軍部は同時に対英開戦が避けられないことを想定し、当時イギリスの植民地であった英領インドの対英独立工作を画策し始めた。その端緒はタイ王国公使館附武官田村浩大佐の下に設置された特務機関であった。この機関は参謀本部の藤原岩市少佐以下10名程から構成され、機関長藤原の頭文字と自由を意味する英語をかけてF機関と命名された。インド独立連盟と協力し工作活動に当り、インド国民軍の編制に当った。その際、機関長藤原少佐は「私達はインド兵を捕虜として扱わない。友情をもって扱いインドの独立の為に協力したい」とインド兵に宣言した。当初はインド駐在イギリス軍の内部分裂を目的としていた為に、インド人を対象とした工作を行っていたが、マレー作戦終了から目的が変わり大東亜新秩序の建設、即ちインドでの反英運動を煽り、ひいてはインドを独立させることでイギリスのアジア戦線からの離脱を狙った。
同機関は岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする岩畔機関に発展改組され、250人規模の組織となった。マレー作戦等で投降したインド兵を教育しインド国民軍に組み入れ、同国民軍の指導、宣伝などを行った。機関は6班で構成され、総務班・情報班・特務班・軍事班・宣伝班・政治班があった。
機関はやがて500名を超える大組織となり、光機関と改称された。光機関は1943年、ドイツに亡命していたインド独立運動の大物スバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボ-スと親交の深い山本敏大佐が機関長となった。光機関の命名はインド語で“ピカリ”という言葉と、「光は東方より来る」という現地の伝説から“光”とされた。支援していたインド国民軍は「自由インド仮政府軍」に発展、一部はビルマの作戦に従事した。またインパール作戦の途中、大本営の“遊撃戦重視”への作戦方針変更に伴ない、機関は「南方軍遊撃隊司令部」と改称し同時に、前述の各班の外参謀部・副官部・マライ支部・タイ支部・サイゴン出張所が設けられた。途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、機関自体は終戦まで軍事顧問団として活動した。結局インパール作戦は失敗し当時の日本陸軍とインド国民軍は連合軍に降伏した。
[編集] 南機関とビルマ戦線
- 詳細は南機関を参照
[編集] 戦後の「特務機関」
- 河辺機関
[編集] 参考文献
- 黒井文太郎 編著 『謀略の昭和裏面史 特務機関&右翼人脈と戦後の未解決事件!』
- (宝島社別冊宝島Real、2006年) ISBN 4796651934
- (宝島社文庫、2007年) ISBN 4796656448
- 北村恒信 『戦時用語の基礎知識 戦前・戦中ものしり大百科』(光人社NF文庫、2002年) ISBN 4769823576
[編集] 関連項目
- 甘粕正彦、川島芳子、土肥原賢二
- 河豚計画
- 陸軍中野学校
- 善隣協会 - 西北研究所- 興亜義塾
- 東亜同文書院
- 東機関
- 情報機関、工作機関
- スパイ
- 馬賊
- 英印軍
- 第二次世界大戦 - 大東亜戦争(太平洋戦争)
- ウィキポータル 大東亜共栄圏
[編集] 注記
- ^ 同時期の日本海軍(以下、海軍)や外務省などにも「~機関」と称される特殊組織は存在した。やはりそのいづれもが特殊任務を遂行したことから陸軍での呼称を準用したものと思われる。
- ^ PETAに対する支援を含む残留軍人・軍属のインドネシア独立への関与に対する評価は定まってはいない。多様な見方が存在する事に留意。