ヌーリスターン州
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ヌーリスターン州 (Nūrestān ペルシア語表記で نورستان) は、アフガニスタン東部にある州である。2001年にラグマーン州とクナル州の北部から分離、新設された。ヒンドゥークシュ山脈の南側に位置し、4,000m以上の険しい山々が連なり、住民は渓谷沿いに居住している。面積9,224.96km²、人口128,400人 (2006年の公式推計[1])、州都はパルーン (Paroon)。州都を含め1市7県を擁する。
1890年代まで、この地域はカフィリスタン (ペルシア語で『不信仰者の地」の意)として知られていた。民族的に他地域とは異なる、アニミズムを信仰する約60,000人のヌーリスターン人 (ヌーリスターン語派話者) が居住していたからである。しかし1895年 - 1896年にこの地はアブドゥッラフマーン・ハーンに征服され、住民はイスラム教に強制的に改宗させられた。そして土地の名も、異教の民がイスラームの光に照らされたとしてヌーリスターン (光の地) と改称された。ヌーリスターン人はインド・ヨーロッパ祖語話者の末裔だと考えられている。また、ヌーリスターンはアレクサンドロス大王が遠征の際に通過した土地にあたるので、ヌーリスターン人はアレクサンドロス大王の末裔だという風説も西欧にある。
ヌーリスターンは、1979年 - 1989年のアフガニスタン侵攻の際、ムジャーヒディーンゲリラによる最も激しい抵抗運動が起こった地域である。この時期、ヌーリスターン東部を束ねたパシュトゥーン人軍閥指導者モウルヴィ・アフザルは、ワッハーブ派を掲げて「アフガニスタン・イスラム革命国」(ダルワート) と称し自立を図った。ダルワートはサウジアラビアとパキスタンから国家として承認を受けたが、後にターリバーンよって消滅した [2]。
ヌーリスターンはアフガニスタンでも最も貧しい辺境の土地である。2006年夏の時点では、治安と社会資本の不足のためNGOは1つも州内で活動していないが、ヌーリスターン州知事のタミム・ヌリスタニの呼びかけに応じて、米国の援助による道路の建設が着工された[3]。また、州を国内の他地域と結ぶ道路はこれまでクナル州を経由する1本しかなかったので、孤立を防ぐために、ラグマーン州へ直接つながる幹線道路も建設中である。
[編集] 治安
ヌーリスターンはきわめて貧しく、民族や経済をめぐる暴力的な衝突に苦悩している。特に、水と木材を巡る激しい抗争が部族間で頻発している[4]。ターリバーンの中心基地ではないが、州とパキスタンの国境は反政府武装集団の伝統的な抜け道となっている。ラシュカレトイバ、イスラム党 (ヘクマティヤール派)、モウルヴィ・アフザルの民兵組織など、多くの非合法武装集団をヌーリスターンは抱えている[5]。
米国が主導する地方復興チーム (PRT) が州内のカムデシュ郡に展開し、地域の復興と開発を支援している。