ネブカドネザル2世
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ネブカドネザル2世(Nebuchadnezzar, 本来のアッカド語表記ではナブー・クドゥリ・ウツル2世 (Nabû-kudurri-uṣur))は新バビロニア王国の王(在位紀元前605年 - 紀元前562年)。名前の由来については「ナブー神よ、国境の境界石を守りたまえ」の意味など諸説ある。ナボポラッサルの長男。
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[編集] 来歴
新バビロニア王国建国者ナボポラッサルの息子として生まれた。旧約聖書の中に「ネブカドネツァル」として現れることでも知られるネブカドネザル2世は、父王の治世中より軍を率いて転戦していた。ハランにあったアッシリアの残存勢力を攻撃し、それを助けるべく出兵した大国エジプトの王ネコ2世をカルケミシュの戦い(紀元前606年)で打ち破った。更にエジプトの影響下にあるシリアの諸王国を次々と征服して領土を大幅に拡張した。
紀元前605年8月15日父王ナボポラッサルが死去すると急遽バビロンへ帰還して王位を継ぎバビロニア王となった。彼が王となってすぐにエジプトはシリア地方への介入を再開し、また征服したシリア地方の諸王国でも各地で反乱の火の手があがった。これに対し紀元前597年にはパレスティナにかろうじて存続していたユダ王国に攻め入って、ヨヤキン王を首都バビロンに連行した。紀元前595年には東に転じてエラムを攻撃し、かつて全オリエントを征服して覇を唱えたアッシリア帝国とほぼ同じ領域をエジプトを除き支配下に置いた。
紀元前589年にも再びエジプトが侵入し、ユダ王国もこれに乗じて再び反乱を起こしたために紀元前586年に再びエルサレムを陥落させ神殿を破壊した。その間得た多くの捕虜は首都バビロンへ連行された。これを「バビロン捕囚」という。このことは旧約聖書、『列王記』下24:8-25:5にも記されている。同じく旧約聖書中の『ダニエル書』は彼によってバビロンへ連行されたユダヤ人たちの物語である。またフェニキアのテュロスにも軍を差し向け、13年間にもわたる包囲戦が行われたという。
彼の治世の後半は史料が乏しい。旧約聖書には彼が発狂したと述べられているが、信憑性の程は分からない。彼の死後、息子のアメル・マルドゥクが王位を継いだ。
[編集] 建築事業
彼はその治世の間に、バビロン市で大規模な建築事業を行ったことで知られている。バビロンのマルドゥク神殿とジッグラトは大幅な改修が行われ規模が拡張された他、街は三重の城壁で囲われるとともにユーフラテス川に橋を通して市域が対岸にも拡張された。巨大な宮殿を建設し宮殿に通じる大通りを作り(行列道路)、有名なイシュタル門も建設された。これは彩色レンガを用いて青を基調にした装飾性豊かな門であり、現在ベルリンのペルガモン博物館で復元展示されているほか、イラクでもレプリカが建設されているなど、古代バビロニアを象徴する建造物の一つとなっている。ネブカドネザル2世はこれらの建築に使われたレンガなどに自分の名前を刻印させており、バビロン市の整備に情熱を燃やした彼の名を現代に留めている。
またネブカドネザル2世に纏わる伝説として、彼が空中庭園を造営したというものがある。彼はメディア出身の王妃アミティスが、故郷の偲んで憂鬱な日々を送っていたのを慰めるためにイランの山を模した(当然のことながら、バビロニアは見渡す限りの起伏のない平野である)空中庭園を建造したのだという。これは非常に有名な説話であり、バビロンの空中庭園は古代の七不思議に数えられている。しかし、この伝説が史実であるという確認は出来ていない。一説には空中庭園があったのはバビロンではなく、アッシリアの首都ニネヴェであったとも言われている。バベルの塔のようにモデルとなった建造物があったのかどうかも現在の所ははっきりしていない。