ハイヤングKYOTO (第二期)
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ハイヤングKYOTO(-きょうと)は、KBS京都ラジオの平日の若者向け深夜番組。同名の番組 旧ハイヤングKYOTOと区別する為、本項では仮にハイヤングKYOTO (第二期)とする。
1996年4月に、はいぱぁナイトの後番組として開始。 放送時間は毎週月~土曜の22:00~24:00(1997年10月からは毎週月~金曜の23:00~25:00)。1999年9月に終了。
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[編集] 概要
イトマン事件の影響でKBS京都が会社更生法の適用を余儀なくされ、それによる経費削減の為にそれまでの東京・原宿スタジオ発のはいぱぁナイトを終了させるに伴って開始された。 しかし、開始に当たっては『はいぱぁナイト』の中でも特に人気の高かった日高のり子と杉原徹は引き続き起用、はいぱぁからの最低限の番組資産の継承を図った。
更に、かつて好評を博した番組『旧ハイヤングKYOTO』の人気パーソナリティだったつボイノリオを金曜日担当として起用。伝説の番組『ハイヤングKYOTO』のタイトルを冠する事によって、かつてのハイヤンリスナーの取り込みをも図った。 余談ながら、つボイノリオは当時既に、現在も続くCBCラジオの平日朝の看板番組「つボイノリオの聞けば聞くほど」を担当しており、活動の拠点を完全に名古屋に定着させた時期だった。 しかし、『ハイヤン』へのリスペクトの思いが強く、名古屋-京都間の「長距離移動」の過酷さを覚悟して同番組出演を引き受けたようである。
[編集] 結果
このように関係各者の努力と思い入れをもってスタートしたこの番組だが、KBS京都本社制作の平日深夜生番組が長らく途絶えていた影響や、旧ハイヤンやはいぱぁの遺産に依存している面は否めず、全体的に見て第一期の頃の勢いとは程遠いものであった。
1996年秋改編で杉原が、更に1997年秋改編で日高・つボイが降板すると、会社更生法の管理下で制作費などの制約もあって彼らに代わる新しい看板パーソナリティーを育てる事もままならず(T.K.Oの木曜の健闘などもあるにはあったが)、番組全体のパワーダウンを食い止める事は出来なかった。
そこに1991年に開局した京都のFM局・α-Stationの台頭に加え、更に娯楽の多種多様化でAMラジオ自体のシェアが急減した影響も重なり、1999年秋改編をもって番組終了。
[編集] KBS京都の深夜生番組のその後
以後、月~金曜の枠はニッポン放送からオールナイトニッポン・スーパー(~2004年3月)のネット受けに変更された。
この改編以後、KBS京都は土曜日にM3 もりもりマニアやカウントダウンRadioと言った深夜生番組を細々と制作し続けるも、2005年秋改編をもって同局から自社制作深夜生番組が完全消滅に至る。一つの時代の終焉を物語る出来事であった。
[編集] 主なパーソナリティー
- 月曜日 - 日高のり子( - 1997年9月)
- 月曜日 - ミッチー・松田奈緒
- 火曜日 - 今西太一・伊良皆誠
- 水曜日 - 杉原徹(テツ100%)・近藤ナツ子( - 1996年9月)
- 水曜日 - メッセンジャー
- 木曜日 - T.K.O(1997年9月?までは和田りつ子も出演)
- 金曜日 - つボイノリオ
- 金曜日 - 安井牧子
- 土曜日 - 青野俊行( - 1997年9月)
[編集] 備考
- 開始当初から半年間、木曜担当でもあった和田りつ子による京都パープルサンガ情報ミニコーナー『りっちゃんのパープルウェーブ』が、新「ハイヤン」の前番組の「はいぱぁ」末期時代から番組中にニッポン放送からネットされていた『独占!!Jリーグエキスプレス』のすぐ後に放送されていた。
- 放送時間が22:00~24:00だった時代は、番組中にニュース速報や地震速報が入ってきたときも、その臨時ニュースは、番組パーソナリティーが原則で読んでいた。
[編集] 前後番組の変遷
KBS京都 月~金曜22:00~24:00(後に23:00~25:00) | ||
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前番組 | ハイヤングKYOTO (第二期) | 次番組 |
はいぱぁナイト 月曜~日曜22:00~24:00 |
allnightnippon SUPER!(ニッポン放送製作) 月曜~金曜22:00~24:00 |
カテゴリ: ローカル局ラジオ番組 | KBS京都