ハルジー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハルジー朝(خلجی Khaljī)は、インド北部を支配したデリー・スルタン朝第二の王朝(1290年 - 1320年)。ヒルジー朝ともいう。
[編集] 歴史
1287年に奴隷王朝のバルバンが死んだ後、後を継いだカイクバードが若年で統率力が無かったため、貴族などによる内紛が続くが、その中からテュルク系の混血部族とみなされて奴隷王朝では低く扱われていたハルジー族が台頭。その長ジャラールッディーン・ハルジーは、1290年にカイクバードを殺害して奴隷王朝を滅ぼし、自らスルターン位に即位してハルジー朝を開いた。
しかし、ジャラールッディーン・ハルジーは1296年に甥のアラーウッディーン・ハルジーによって暗殺された。かわって第2代スルタンに自ら即位したアラーウッディーンは、積極的な南インド遠征を3度にわたって敢行し、1309年までにインド南部の大半を占領してデリー・スルタン朝の最大版図を実現し、インドをほぼ統一した。また、この頃、現アフガニスタンの山岳地帯に駐留してたびたびインドに侵入してきたモンゴル軍を撃退し、インドの自立を保っている。
アラーウッディーンは、内政面においては、貴族統制のために密告を奨励したり、ヒンドゥー教徒の地方領主を抑圧して統制力を高め、厳格な物価統制や検地による経済と税収の安定化を行なうなど、強圧的に施策を行った。さらに南インド遠征の成功により得た多大な戦利品などもあって、ハルジー朝は文化的、経済的にも大きく発展することとなり、全盛期を迎えたが、アラーウッディーンの晩年には奢侈に溺れ、早くも衰退の兆しが見え始めた。
1316年にアラーウッディーンが死去した後、アラーウッディーンの側近であった宦官のマリク・カーフールが実権を掌握した。さらにカーフールの政権が短期間で倒れた後も、スルターン位と権力を巡る争いが続いて政治が混乱し、この内紛でハルジー朝は急速に衰退していった。
アラーウッディーンの死からわずか4年後の1320年、ハルジー朝に仕える地方総督が起こしたトゥグルク朝が内紛を制してハルジー朝に取って代わり、ハルジー朝はわずか30年で滅亡した。