ハンス・フォン・ゼークト
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ハンス・フォン・ゼークト(Hans von Seeckt, 1866年4月22日 - 1936年12月27日)は、ドイツの軍人。第一次世界大戦後厳しいヴェルサイユ条約の下でドイツ陸軍を再建した中興の祖である。
[編集] 略歴
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州生まれ。彼は1885年に陸軍に入隊、1899年に参謀本部に勤務する。第一次世界大戦では主に東部戦線に従軍し、第11軍の参謀長として名声を上げた。敗戦後、1919年ヴェルサイユ条約により10万人に制限され、参謀本部も禁止されたドイツ共和国陸軍の兵務局局長(参謀本部の偽装名称)、1920年陸軍総司令官(Chef der Heeresleitung der Reichswehr)に就任する。1920年軍の反乱に社民党政治家のノスケ国防大臣の鎮圧命令を「軍は軍を撃たない」と拒否したことで有名である。領土を掠め盗ったポーランドに対しては敵愾心を燃やし、秘密裏にソビエト・ロシアと軍事協定を締結してヴェルサイユ条約が禁ずる戦車、毒ガス、航空機などの兵器をロシア奥地で開発研究する。「黒い国防軍」計画とも呼ばれる。努力は後の急速な再軍備に花を咲かせる。政治的には軍の中立を信念として兵士には如何なる政治活動を許さなかった。軍がヒトラーに忠誠を誓う事に猛反発した。
1926年退任。1930年から1932年まで彼はドイツ人民党 ( Deutsche Volkspartei ) の党員として国会に議席を得た。1930年の大統領選挙ではヒトラーを支持した。1933年から1935年まで中国に渡り蒋介石の軍事顧問を勤め、上海周辺に構築された防御陣地は"ゼークトライン"と称される。陣地は1937年の第二次上海事変の際には有力な防御拠点として期待されたが、それを裏切る格好で日本軍により攻略されている。ドイツは1927年から1938年まで中国に継続的に軍事顧問団を送り込んでいる。当時中国はドイツにとり重要な貿易相手国であった。
[編集] ゼークトの組織論
インターネット上やビジネス書などでゼークトの言葉として引用されるものであるが、ゼークトの著書の中でこれらの言葉が述べられたことはない。『一軍人の思想』『ドイツ国の基本的諸問題』『モルトケ』などの著書は、ハウツー本に用いられるような表現では書かれてはおらず、またゼークトの著書には「組織論」などという著作は存在しない。軍人としてのゼークトの名声を利用した組織論であり、ゼークトとは何の関係もない。
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