バナスター・タールトン
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![バナスター・タールトン by Sir Joshua Reynolds](../../../upload/shared/thumb/0/05/Banastre-Tarleton-by-Joshua-Reynolds.jpg/300px-Banastre-Tarleton-by-Joshua-Reynolds.jpg)
バナスター・タールトン(Banastre Tarleton,1754年 8月21日 - 1833年 1月25日)は、イギリス軍の陸軍大将、政治家、準男爵、バス勲位。アメリカ独立戦争中の冷酷残忍という評価により、「血塗られたバン」あるいは「殺戮者」と渾名された。イギリス軍では彼を傑出した軽装騎兵の指揮官とみなした。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 青年時代
バナスター・タールトンは1754年、リバプールで商人、船主、奴隷貿易業者であり1768年にはリバプール市長をしていたジョン・タールトン(1719 - 1773)の7人の子供の4番目として生まれた。タールトンは、ロンドンのミドル・テンプル(en:Middle Temple)で教育を受け、1771年にオックスフォード大学のカレッジ(en:University College, Oxford)に進み、その後イギリス陸軍に入った。まだ若いうちに、父の死によって5,000ポンドの遺産を相続したが、賭け事ですべて摩ってしまった。1775年、第1近衛竜騎兵隊の騎兵士官職を金で買い、才能ある騎手と軍隊指揮官であることを証明してみせた。
[編集] アメリカ独立戦争
1775年12月、タールトンはチャールズ・コーンウォリスとともに志願してアメリカに渡った。アメリカ独立戦争の1776年における働きで、彼は騎兵隊の副官の地位を得た。
指揮官ウィリアム・ハーコート大佐の下で、タールトンはニュージャージーの大陸軍チャールズ・リー将軍の動きを探る偵察隊の一部を担った。12月13日の金曜日、タールトンはバスキング・リッジの1軒の家を取り囲み、家を燃やしてしまうと脅かしてまだガウン姿のリー将軍を降伏させた。
「タールトン突撃隊」とも呼ばれる騎馬兵と軽装歩兵の混成イギリス軍団の指揮官となったタールトンは、 1780年の初めにサウスカロライナに転進し、チャールストン占領に至る作戦行動で指揮官ヘンリー・クリントン将軍に大きな貢献を果たした。
1780年5月29日、タールトンは150騎の騎馬隊を引き連れ、アブラハム・ビュフォード率いるバージニア地域大陸軍の350名なし380名の分遣隊に追いついた。ビュフォードは降伏を拒み、行軍を続けようとした。しかし多くの犠牲者を出したビュフォードは降伏を告げた。その直後に起こったことは今でも議論の種になっている。アメリカ側の証言では、タールトンが捕虜を慈悲も無く虐殺したことになっている。タールトンの証言では、彼の騎乗する馬が銃弾を浴び、彼が死んだものと信じ込んだ部下達が混乱を起こした、ということである。結局、100名以上の大陸軍兵士がサーベルで切られて死んだ。ワックスホーの虐殺として知られる事件である。
それ以来、非難の声が喧しく論じられてきた。しかし、現場にいたイギリス軍の軍曹ロバート・ブラウンフィールドは次の様に書き残している。
- 「その無差別殺人の始まった時、タールトンは彼の残虐な部下とともにその渦中にいたが、野蛮人の無慈悲な殺戮を超えるものではなかった」
ワックスホーの虐殺は大陸の革命家達の間で重大な反感の声となった。それまで中立的な立場にいた者達まで、この虐殺を知った後は革命の熱心な支持者となった。戦争の残りの期間、「タールトンの慈悲」あるいは「無慈悲」が大陸の愛国者達のスローガンになった。
サウスカロライナにおけるタールトンの宿敵はフランシス・マリオンであった。タールトンは一度もマリオンを捕まえたり無力化することができなかった。マリオンはサウスカロライナ住民の間で大きな人気を持ち続け、彼らの支援でゲリラ作戦を続けた。対照的にタールトンは地元住民に対する多くの残虐行為で市民から見放されていった。例えば、死んだ愛国者士官の農園で、タールトンは死体を掘り出し、一方で未亡人には食事を供するよう要求した。彼の部下の一人がこの事件について後に書き記した。
- 「1780年11月、ネルソンズ・フェリーへの遠征で、タールトンはリチャードソン将軍の農園で家屋とその屋外のとうもろこしと飼料、さらに牛、豚、家禽の大部分を焼いた。将軍は大陸軍で活躍していたが、その時は死んでいた。イギリス軍の指揮官はリチャードソン将軍の未亡人や子供に向かい、この文明の時代に東方のバーバリ海岸(注:アフリカ北部地方)の作法に従って、その夫や両親の偉業を貶めさせた。この残虐な行為に付け加えてタールトンはその家でまず食事をし、それができる余裕があることで上機嫌に振舞った。しかし我々は受けた接待に彼が報いた方法を目にしたことは無かった。タールトンとその部隊はイギリス軍のどの部隊よりも残酷な行動を取ったばかりでなく、略奪行為を欲しいままにしたのが日常観察されたことである」
タールトンは1780年8月のキャムデンの戦いでコーンウォリスが勝利するのを物質的に支援した。彼はフィッシング・クリークあるいはカトーバ・フォーヅで大陸軍のトーマス・サムター将軍と戦い完勝したが、11月にブラックストックヒルで再度まみえた時は、それほどの成功を収められなかった。続く1781年1月、個人的な勇猛さにも拘わらず、タールトン軍はコーペンスの戦いで大陸軍のダニエル・モーガン准将率いる部隊に打ち破られた。タールトンはかろうじて逃げおおせた。
タランツハウスでの小競り合いでは勝利し、ガリフォード郡庁舎の戦いに参加した後、タールトンはコーンウォリスとともにバージニアに引き返した。バージニアでのタールトンは小さな遠征を繰り返した。この遠征の中でも、当時のバージニア知事トーマス・ジェファーソンと議会議員を捕獲するために、シャーロッツビルの襲撃が特筆される。襲撃を知ったジャック・ジューエットが夜通し40マイル(64km)を駆けてジェファーソンと議員達に通報し、襲撃は失敗した。議員7人の他はすべて逃げられた。他にも任務をこなした後、コーンウォリスがタールトンにグロースター・ポイントを確保するよう指示を出した。しかし、この場所は1781年10月にヨークタウンとともに大陸軍に降伏した。タールトンは釈放されてイギリスに戻った。
ヨークタウンの降伏後、イギリス軍の指揮を執っていた士官全員が大陸軍の士官から食事に招待された。ただし一人を除いて。その一人とはバナスター・タールトンであった。
[編集] 政治家としての経歴
1784年、タールトンは英国議会にリバプールの代表として立候補したが、惜しくも落選した。1790年、リチャード・ペナンの後を受けてリバプール選出庶民院議員に当選し、その後は1年間の空白を除いて1812年まで議員を勤めた。タールトンはチャールズ・ジェイムズ・フォックス(en:Charles James Fox)の支持者であった。ただし、フォックスはアメリカ独立戦争におけるイギリスの態度に反対していた。タールトンは、軍事問題や他の議案に関わったが、特に奴隷貿易について議論を戦わせた。リバプール港が特に関係が深かったからである。タールトンは彼の兄弟であるクレイトンやトーマスが奴隷貿易に関わっていたので、その存続を支持し、廃止論者に対する野次や冷笑行為でよく知られるようになった。彼は通常野党側に立っていたが、1807年から1808年にかけて、フォックス=ノース連立内閣が成立すると、名目上の首班ポートランド公ウィリアム・ヘンリー・カヴェンディッシュ・ベンティック(en:William Cavendish-Bentinck, 3rd Duke of Portland)の内閣を支持した。タールトンはバーウィックとホーリー島の知事に任命された。
1794年、タールトンは少将に昇進し、1801年には中将、1812年には大将に任じられた。彼はアイルランドやイングランドの各地で軍指揮官となった。1815年、タールトンは準男爵に叙せられ、1820年にはバス勲位を授与された。
[編集] 余生
タールトンは1798年以降アンカスター公爵の娘と結婚していたが、子供は無く、1833年にシュロップシャー州のリントワーディンで死んだ。ある期間、女優のメアリー・ロビンソン(en:Mary Robinson (poet))と同棲していた。この15年間にも子供は得られなかった。1783年にロビンソンは流産している。
タールトンの肖像画はジョシュア・レイノルズ(en:Joshua Reynolds)とトーマス・ゲインスボロ(en:Thomas Gainsborough)によって描かれている。
バーンスター卿(タールトン)は、「北アメリカ南部での1780年から1781年に至る作戦」(Campaigns of 1780 and 1781 in the Southern Provinces of North America (London, 1781))という書物を著した。この中で、カロライナにおける彼の行動を肯定的に描き、コーンウォリスの決断に疑問を呈している。これはロデリック・マッケンジー大佐の著書「タールトン中佐の批評」(Strictures on Lieutenant-Colonel Tarleton's History (1781))とコーンウォリスの手紙で批判されている。
[編集] 2006年捕獲されたアメリカ軍旗が競売に付された
2005年11月、タールトンが1779年と1780年にアメリカ大陸軍から捕獲した軍旗が4つ、イギリス国内に保存されており、2006年にニューヨークのサザビーズで競売に付されるとの報道があった。(Press Release参照)このうち2つは、1779年に捕獲された第2大陸軽装竜騎兵隊の部隊旗であり、他の2つは明らかにワックスホーの虐殺で捕獲された師団旗である。これらの軍旗はアメリカ独立記念日(2006年7月14日)の競売で落札された。
[編集] 関連作品
ハリウッド映画パトリオットの中でジェイソン・イサックス(en:Jason Isaacs)演じるウィリアム・タビントン大佐は、捕虜や無辜の市民を虐殺した残酷で加虐的な指揮官としてタールトンを元に作られている。[1]タビントン大佐は村人を教会に閉じ込めたまま火を付けたとし、悪名高い第二次世界大戦のナチ戦犯に匹敵する残虐行為としている。[2][3] この論議を呼びそうな演出に対し、リバプールの市長エドウィン・クラインがリバプールの「英雄」に対する誤解と誹謗だとして映画制作者に謝罪を要求した。[4]
バナスター・タールトンは2006年の映画アメイジング・グレイス(en:Amazing Grace (2006 film))でも、イギリス議会で奴隷貿易廃止論者に反対する人物として描かれた。
タールトンはバーナード・コーンウェルの小説en:Sharpe's Eagleでもサウスエセックス連隊の大佐ヘンリー・シマーソンに関連する人物として付加的に描かれている。
[編集] 脚注
- ^ http://www.geocities.com/tavington_fanfic/history.html
- ^ http://en.wikipedia.org/wiki/Oradour-sur-Glane
- ^ http://dir.salon.com/ent/movies/feature/2000/07/03/patriot/index.html?pn=1
- ^ http://film.guardian.co.uk/News_Story/Exclusive/0,4029,338280,00.html
[編集] 関連項目
[編集] 参照
- この記述はパブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』("Encyclopædia Britannica" 1911年版)に基づいています。
- A Sketch of the Life of Brig. General Francis Marion (By William Dobein James, A.M. (Member of Marion's Militia)
- Redcoats and Rebels (By Christopher Hibbert)
[編集] 外部リンク
- Banastretarleton.org Website on Tarleton with his account of the Southern Campaigns of 1780-1781 (for reference only)
- PDF download {For reference only}