パラグアイ戦争
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パラグアイ戦争(パラグアイせんそう, Guerra del Paraguay, 1864年-1870年)は、パラグアイと、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍との間で行なわれた戦争。ラテンアメリカの歴史の中で最も凄惨な武力衝突となった。三国同盟戦争(Guerra de la Triple Alianza)、ロペス戦争(Guerra López)とも呼ばれる。
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[編集] 概要
開戦の直接のきっかけは、当時ブラジル・アルゼンチンの緩衝国であったウルグアイの政変に、パラグアイの独裁者であり領土拡張主義者であったフランシスコ・ソラーノ・ロペスが介入したことによるが、ラテンアメリカの植民地支配の歴史やこの地域へのイギリスの経済的関心も影響しているとも言われる。
戦争は1864年11月にパラグアイがブラジルに侵攻することにより開始された。6,000の兵力で侵攻したパラグアイ軍は、翌12月にはブラジルの要衝コインブラやコルンバの占領に成功する。1865年3月に入ると、パラグアイは1万の兵力によりアルゼンチンにも侵攻を開始した。翌4月にはコリエンテスを占領する。6月にはブラジル・リオグランデドスル州を経由し、ウルグアイに迫った。
しかし、6月11日にパラナ川で行われた水上戦闘において、パラグアイ艦隊はブラジル艦隊に敗北を喫した。これにより、ウルグアイに迫ったパラグアイは包囲され、降伏するに至った。パラグアイ軍は主力を国内に撤退させるに至った。
1866年には、三国同盟軍がパラグアイ国内へ侵攻を開始した。パラグアイ川とパラナ川の合流点にあるパソデリアは、4月に同盟軍が占領した。5月にはパソデリア北方において、パラグアイ軍25,000と同盟軍45,000による大規模な戦闘が行われ、パラグアイ軍が壊滅的な打撃を受けた。
その後も同盟軍はパソデリア北方におけるパラグアイの要塞を攻撃し、1867年7月にはウマイタ要塞を陥落させるに至った。これによりパラグアイ川の航行が可能となり、同盟軍は川沿いに急速に進撃を開始した。軍主力が壊滅しているパラグアイ軍は、老人・子供・女性を動員し、何度も防戦を行ったが、兵力不足により敗北が続いた。1869年1月には同盟軍が首都アスンシオンを占領している。
パラグアイの指導者・ロペスは、市民とともに首都を脱出し北上した。この集団は、老人・女性・子供も多いものであった。集団は戦闘を行いつつ北上を続けたが、1870年3月に同盟軍に包囲され、ロペスは戦死し、戦争は終結した。
[編集] 結果
戦争はパラグアイの完全な敗北に終わった。政府軍同士による戦いが終結した後も長期に渡るゲリラ戦が続き、その結果軍人市民問わず多数のパラグアイ人が死亡した。ある推測によると、戦争および戦争中の疫病により、当時の人口の9割にあたる120万人のパラグアイ人が死んだとされる。より正確とされる推計では、開戦前にいた50万人ほどのパラグアイ人のうち、約30万人が死んだとされている。
終戦後、パラグアイでは壊滅的に混乱した状況からの立ち直りと、成人男子の殆どを失ったことによる人口分布のアンバランスの解消に、半世紀と言われる年月を費やした。一方、ブラジルは奴隷制度の廃止と軍主導の政治体制へと向かった。アルゼンチンは近代化への道をたどり、ウルグアイにとっては、ブラジル・アルゼンチンによる内政介入から脱するきっかけとなった。
[編集] 参考文献(英語版)
- Robert Scheina, Latin America's Wars: The Age of the Caudillo, 1791-1899, Dulles, Virginia: Brassey's, 2003.
- en:War_of_the_Triple_Alliance
[編集] 外部リンク
- Page at countrystudies.us
- The War of Paraguay(ポルトガル語)
- The War of Paraguay - history (ポルトガル語)
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