パーヴェル・レンネンカンプ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パーヴェル・レンネンカンプ(Павел Карлович Ренненкампф;1854年4月17日 - 1918年3月)は、帝政ロシアの軍人。騎兵大将。
エストリャンド県の世襲貴族出身。1870年、ロシア帝国軍に入隊し、ヘルシンキフォルスク歩兵士官学校、参謀本部アカデミーを卒業し、将校となった。第36アフトゥイル竜騎兵連隊長となったが、公金横領が発覚してシベリアに左遷された。
1900年~1901年の義和団事件鎮圧の際にザバイカル部隊を指揮して有名となり、ゲオルギー勲章を2度受章した唯一の指揮官となった。日露戦争時、ザバイカル・コサック師団を指揮し、「勇気に対する」の署名の入った金製武器と剣付き一等聖スタニスラフ勲章を受章した。終戦後、第7シベリア軍団長に任命。1905年、シベリア及び極東でのゼネスト鎮圧のために、ニコライ2世から排他的権限を得た。1910年、騎兵大将に昇進し、ヴィレンスク軍管区を指揮。
第一次世界大戦勃発と共に、北西戦線第1軍を指揮。グンビンネン地区で勝利を収めるが、北西戦線の攻撃は無計画なものであり、戦果を確固たるものにすることができなかった。ドイツのパウル・フォン・ヒンデンブルクは、この好機を利用してアレクサンドル・サムソノフ将軍指揮下のロシア第2軍を撃滅し、サムソノフ自身は自決した。レンネンカンプは、部隊統率能力の欠如により軍司令官から更迭された。
罷免後、軍事相の管轄下に置かれ、1915年に退役。1917年5月、臨時政府により逮捕され、掠奪の容疑で起訴された。1918年3月、偽名を使ってタガンログに転居したが、チェーカーに発見され、銃殺。