ヒダヤス・モヒュディン・カーン
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ヒダヤス・モヒュディン・カーン(ムヒーウッディーン・ムザッファル・ジャング・ヒダーヤト)(محی الدین مظفر جنگ هدایت , Muhi al-Din Muzaffar Jang Hidayat)(不詳 - 1751年2月3日)は、ニザーム藩王国3代目当主を宣言した人物。
アサフ・ジャー1世が没した時、その相続者である彼の長男は、父の代理としてデリーのムガル帝国宮廷に出仕していた。この機をついて、次男のミール・アフメッド・アリ・カーン・ナスィール(ナズィール・ジャー)がデカン地方の統治者を宣言したが、アサフ・ジャー1世の甥であるムヒーウッディーン・ムザッファル・ジャングはこれに強行に反対した。この跡目争いの間隙をついて、マラータ族がハイデラバードを襲い、鎮圧軍を派遣して手薄となっていたナズィール・ジャーは、ムガル帝国のパターン族太守に討ち取られてしまう。 既にデカン地方への進出の機会をうかがっていたイギリス、およびフランスがこの跡目争いに干渉しており、フランスの支援の下でヒダヤス・カーンは、デカン地方の統治者を宣言した。しかし彼も、自身のパターン族従者に殺害された。彼は、アサフ・ジャーの称号は与えられていない。
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