ピウス11世 (ローマ教皇)
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ピウス11世(Pius XI,1857年5月31日-1939年2月10日)はローマ教皇(在位:1922年2月6日-1939年2月10日)、カトリック教会の司祭。本名 アキレ・ラッティ(Achille Ratti)。二つの世界大戦のはざまの時期にあって、世界平和の実現に奔走し、19世紀以来とだえていた諸国と教会の関係正常化をはかった。ピオ11世とも表記される。
[編集] 生涯
イタリアのデジオで工場経営者を父に生まれたアキレ・ラッティは、要職であるミラノ大司教を経て教皇に選出された。長く外交分野で働いたが、本来は学者で、諸言語に通じ、古代以来のさまざまな神学的著作に精通していた。
ピウス11世を名乗るラッティは、教皇として文化と政治の両面で目覚しい働きをしている。バチカンの絵画館、ラジオ局、科学アカデミーはすべてピウス11世の時代につくられたものである。
政治的にはラテラノ条約をはじめとする政教条約の締結で知られる。19世紀以来、バチカンはイタリア政府と断絶状態であったが、ピウス11世はこれを解決すべくムッソリーニと交渉し、1929年2月11日ラテラノ条約が結ばれた。これはバチカンがイタリア政府を認め、同時にイタリア政府もバチカンを独立国として認めるというものであった。これによって「ローマの囚人」状態が解消され、世界最小の国家バチカン市国が成立した。それは同時に、かつてよりバチカンが求めていた広大な教皇領の返還をあきらめるということを意味していた。このとき、教皇領の代償として7億リラが支払われ、以後の聖座の財源となったという。ムッソリーニ政権下のイタリアをバチカンの関係は必ずしも良好ではなく、1931年には回勅『ノン・アビアモ・ビゾーニョ』で公式にファシスト党を非難している。
当時の宗教関係者としては例に漏れず、無神論的な社会主義やユダヤ人を嫌っており、この点で彼やカトリック関係者の思想の一端はナチスと似通っているといえる。ナチス台頭以前のドイツではカトリック系のドイツ中央党が政治に大きな影響を与えており、ドイツ・カトリックの関係者が国政に参加することも珍しくなかった。そのため、ナチスとカトリックは対立関係にあり、ドイツの司教はナチス関係者の洗礼を拒否することもあった。しかしナチス台頭後、ドイツ中央党党首フランツ・フォン・パーペンがナチスに接近、33年にナチスが政権を握った時、同氏は副首相に就任し、ピウス11世は正式にナチス政権を認めた。そして、ドイツ中央党はいわゆる全権委任法に賛成し、ナチスとカトリックの協力関係が築かれた。33年7月にはドイツとバチカンで政教条約が結ばれ、ナチス政権はカトリックの保護を約束し、教会は司教・信者のナチスへの忠誠を誓った。ローマ=カトリックがナチスと協力関係に入った理由にはいくつかの説がある。積極的理由としては反共産主義、反ユダヤ主義という点で一致していたこと、消極的理由としてはドイツ領内のカトリック教徒の保護とバチカンの保護である。
しかし、ナチスは36年のベルリンオリンピックを境に政教条約を無視し、カトリック教会による青年運動などを禁止した。対して1937年には回勅『ミット・ブレネンデル・ソルゲ』で、ナチスを新興異教と称し、人種・民族・国家を神格化した酷い異端だと非難した。
また、社会主義に対しても批判的な態度をとり続けた。37年に回勅『ディヴィニ・レデムプトリス』を発し、社会主義を宗教的罪悪であると非難した。
教会的には「王であるキリスト」の祝日を定めた。これはキリストの支配が国家や主義を超えて世界と人間の全生活に及ぶと宣言することで、政治的な次元を超えるキリスト教の精神を再確認したものであった。
中世以来のバチカンの世俗国家的姿勢を捨てて、現代世界におけるカトリック教会のありかたを模索したピウス11世は第2次世界大戦前夜の1939年2月10日に世を去った。
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