ファドリケ・アルフォンソ・デ・カスティーリャ
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ファドリケ・アルフォンソ・デ・カスティーリャ (Fadrique Alfonso de Castilla,1334年? - 1358年)は、カスティーリャ王アルフォンソ11世と愛妾レオノーラ・デ・グスマンの庶子として、セビリャで生まれた。初代アロ卿。25代目サンティアゴ騎士団長(在任1342-1358)。生年に諸説あり、エンリケ・デ・トラスタマラの双生児の弟とも、一歳年下の弟ともいわれている。
1351年に母レオノーラが処刑されると、兄弟のエンリケ・テリョ・サンチョとともに、異母弟ペドロ1世に反旗を翻した。彼はカスティーリャ貴族の反乱に加わったが、ペドロと和解し、王家の密使に任じられて、国境でペドロの婚約者ブランシュ・ド・ブルボン(のちの王妃)に面会した。
1354年、ポルトガル国境警備に就き、ペドロの信頼を失った前宰相ジョアン・アロンソ・アルブケルケと、ペドロを裏切るための交渉をした。トレドの住民はファドリケを援助し、彼は700人の兵士を引き連れて現れた。戦いはわずかな期間のみで回避され、ペドロは譲歩し、ファドリケを宮廷の要職に就けた。ファドリケは、王の愛妾マリア・デ・パディーリャの叔父フアン・フェルナンデス・デ・イネストロサを仲介にたて、王に見せかけの許しを請い、受け入れられた。その間、エンリケはフランスで王位簒奪の援助を求めて活動していた。
ペドロは、ファドリケをセビリャの王城へ招き、そこで彼に死を命じた。ファドリケは逃れようと王城の庭へ駆け込んだが、捕らえられた。別の言い伝えでは、ペドロ自身がファドリケを殺したといわれている。
ファドリケは、カスティーリャ貴族のレオノーラ・デ・アングロと結婚していたが、子供はなかった。彼には愛人パロマ(ポルトガル王アフォンソ1世に重用されたユダヤ人・ヤヒア・ベン・アリの子孫)との間に3人の庶子がいた。
- アルフォンソ・エンリケス・デ・カスティーリャ(1354-1429) 初代メディナ・デ・リオ・セコ卿
- ペドロ・エンリケス・デ・カスティーリャ(1355-1400) 初代トラスタマラ伯、カスティーリャの2代目警察長官。
- レオノーラ・エンリケス・デ・カスティーリャ(1357-?) カスティーリャの陸軍元帥ディエゴ・ゴメス・サルミエントの夫人