フィブリノゲン問題
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フィブリノゲン問題とは、C型肝炎ウイルス(HCV)に汚染された血液製剤フィブリノゲンにより引き起こされたとされる問題。
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[編集] 概要
米国では、食品医薬品局(FDA)が、B型肝炎感染の危険性があること及びフィブリノゲン製剤の臨床効果を評価するのは困難であり有効とされる適応症がほとんどないことを理由に、1977年12月、フィブリノゲンと同成分の製剤の製造承認を取り消した。なお、当時米国で販売されていたフィブリノゲン製剤は、B型肝炎ウイルスについて不活化処理がなされていなかったため、米国内で肝炎発生事例が多数報告されていたが、日本国内で販売されていた製剤では不活化(BPL)処理がなされており、後の検証実験から、BPL処理がHCVを不活化していたことが判明しており、また日本国内で実際に肝炎が発症したという報告例はほとんどなかった。その後1985年に不活化処理方法が変更(HBsグロブリン付加)されたため、結果HBVのみの不活化となり、非A非B肝炎発生報告例が増加した。
日本でのフィブリノゲン製剤は、ミドリ十字社(現三菱ウェルファーマ)が唯一生産していたが、1979年には日本のある研究者もこうした事実を指摘していた(国立予防衛生研究所血液製剤部長の安田純一著「血液製剤」)。またミドリ十字社も、1978年1月に、FDAによるフィブリノゲン製剤の承認取消が掲載された米国連邦広報を入手し、社内で回覧していた。
当時国内では低フィブリノゲン血症しか適応症として承認されていたいなかったにもかかわらず、臨床の現場では、止血剤として気軽に広く非加熱のフィブリノゲン製剤が使われてきていた。 見直しが行われたのは1987年3月に青森県三沢市の産婦人科医院で8人が集団感染した非A非B肝炎集団発生事例からである(ほぼ同時期に、診療所で8人もの大量の患者が発生したということは、同医院にて、止血剤として安易に投与されていたという背景が理解できるであろう)。ミドリ十字社は非加熱製剤の自主回収を開始したが、旧厚生省が緊急安全性情報を配布したのは翌1988年であった。 加熱製剤は1987年4月に承認・発売されたが、これはHIVウイルス、B型肝炎ウイルスには有効だが、非A非B型肝炎ウイルス(1989年にHCVであることが判明)には十分な処理法ではなかった。HCVに対し有効な不活化法と確認されたSD処理加熱製剤の発売は、1994年8月を待たねばならなかった。 青森の肝炎集団発生事例から10年後の1998年、旧厚生省は適応症を先天性血液凝固因子欠乏症に限定、これにより製剤使用数は激減し、ようやく問題は収束したかに見えた。
事態が一転したのは2002年のニュースJAPANの報道による。番組取材班は、初の感染者を記録した三沢市の産婦人科医院が当時のフィブリノゲンを保管していることを突き止め、製剤(非加熱4本、加熱1本)を入手。分析の結果、これらの製剤は製造後15年経過したにも関わらず、いずれにも未だに活力を持ったHCVが存在していた。更に番組が行ったDNA鑑定では、この製剤中のウイルスと、過去に同製剤を投与され肝炎を発症した患者のウイルス、アメリカ麻薬患者のウイルスが全て同一と確認された。これによりウイルスの由来がアメリカで買い付けた原料血漿(ミドリ十字子会社のアルファ社)であることが明らかとなる。血液は刑務所内の売血、麻薬中毒者や売春婦・夫を対象とした極めてハイリスクなものであった。(これは薬害エイズ事件と原因を同じくしている)
これにより、一部の患者のC型肝炎がフィブリノゲン製剤によって引き起こされたことが初めて立証された。また、現在でも全国各地の病院に非加熱フィブリノゲンが未だに残っていることが明らかになる。患者は政府や製薬会社へ集団訴訟を行い社会問題と発展した。
このスクープにより、ニュースJAPANは数々の賞を受賞している。
[編集] 取り組みと裁判
厚生労働省は2004年、三菱ウェルファーマ社のデータを基にフィブリノゲン製剤納入先医療機関名を公表しHCV検査受診を呼びかけている。
薬害肝炎弁護団は各地の地方裁判所で次々に同様の裁判を起こし、大阪・福岡の訴訟判決(2006年)では、一部の原告に対してHCV感染とフィブリノゲン製剤の因果関係を認定した他は、国、製薬会社に責任は無しとの判断を示した。同時に提訴された第9因子製剤によるHCV感染は、全例棄却されている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考資料
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