フェリックス・シュトルム
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基本情報 | |
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本名 | アディナン・カチャク |
あだ名 | |
階級 | ミドル級 |
国籍 | ![]() |
誕生日 | 1979年1月31日 |
出身地 | レバークーゼン, ドイツ |
命日 | |
死地 | |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 28 |
勝ち | 26 |
KO勝ち | 12 |
敗け | 2 |
引き分け | |
無効試合 |
フェリックス・シュトルム(Felix Sturm, 1979年1月31日- )はドイツのボスニア人プロボクサー。元WBAおよびWBO認定世界ミドル級チャンピオン。アマチュアで鍛えたテクニックをベースにしたガッチリと守備を堅め、ジャブを多用しながらポイントを重ねるアウトボクサーである。シドニーオリンピックにはドイツ代表として出場。ボスニア・ヘルツェゴビナからドイツに難民として戦乱を逃れてきた両親のもとで、レバークーゼンに生まれる。 本名はアディナン・カチャクという名だが、プロデビュー時にフェリックス・シュトルムを名乗る。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] アマチュア時代
シュトルムはアマチュアボクシングで実績を残している。
- 1997年:ドイツ選手権ライトミドル級 - 2位
- 1998年:ドイツ選手権ライトミドル級 - 優勝
- 1999年:世界選手権にドイツ代表で出場。2回戦。
- 1999年:ドイツ選手権ライトミドル級 - 優勝
- 2000年:ヨーロッパ選手権ライトミドル級 - 優勝
- 2000年:シドニーオリンピックドイツ代表で出場。3回戦でアメリカのジャーメイン・テイラーに敗れる。
[編集] プロ時代
五輪出場後、プロ転向を目指し2001年1月27日にプロデビューする。ドイツ好みのテクニック重視の堅いボクシングで勝利を重ね、2003年3月8日にIBFユースミドル級のタイトルを獲得する。さらに同年7月12日にはWBOインターコンチネンタルミドル級タイトルも獲得。同年9月13日に初のタイトルマッチとしてハビエル・ベラスコの持つWBOミドル級タイトルに挑戦し、2-1判定で勝利して無敗のままチャンピオンになる。このタイトル戦はもともとマッチメイクされていた挑戦者が負傷のため試合できず急遽代役にシュトルムが抜擢されたものであった。1度防衛後にまた大きなチャンスが巡ってくる。初のアメリカデビュー戦、相手はオスカー・デラホーヤ、デラホーヤの6階級制覇を賭けた試合であった。2004年6月5日にこの試合は行われ、結果は僅差の判定でデラホーヤの勝利であった。
その後、2005年3月5日にWBOインターコンチネンタルミドル級タイトルを2度防衛し、2006年7月15日にマセリノ・マソーを12回判定で破りWBAミドル級タイトルを獲得した。しかし、このタイトルは初防衛戦でスペインのハビエル・カスティリェホに奪われてしまった。
[編集] オスカー・デラホーヤとの対戦
ラスベガスMGMグランドで行われたこの試合、シュトルムは判定で敗れはしたが内容では決して負けておらず、実力をアメリカのボクシングファンに印象つけるものとなった(人気は別として)。この試合ではジャブでデラホーヤを圧倒し終わってみればデラホーヤは満身創痍で本人も「不甲斐ない」と語り、判定に首を傾げるファンも多かった。
実はデラホーヤ側としては、この日の前座で試合をしたバーナード・ホプキンスとミドル級の4団体王座統一マッチが組まれており(もちろん勝てば、の前提付きではあったが)負けるわけにはいかない事情があった。"死刑執行人"ホプキンスと"ゴールデンボーイ"デラホーヤが4団体のタイトルを賭けて対戦するという世紀のビックマッチである。それを実現するためにも、また自身の6階級制覇という伝説を完成するためにもどうしてもシュトルムの持つWBOミドル級タイトルが必要だったのである。そのため、この試合の判定を巡って論争が起こるとともに無名であったシュトルムの名前が売れることとなった。
[編集] 獲得タイトル
[編集] 関連記事
前王者 ハビエル・ベラスコ |
第14代WBO世界ミドル級王者 |
次王者 オスカー・デラホーヤ |
前王者 マセリノ・マソー |
第28代WBA世界ミドル級王者 |
次王者 ハビエル・カスティリェホ |