フレッチャー・クリスチャン
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フレッチャー・クリスチャン(Fletcher Christian、1764年9月25日 - 1793年10月3日)はバウンティ号の反乱者のリーダーである。
フレッチャー・クリスチャンは有名な詩人ウィリアム・ワーズワースとは遠い親戚であり、同級生の地元の詩人アイザック・ウィルキンソンはクリスチャンを「穏やかで、気前がよく、開いていて、人道的で、真実で、勇気で早い」と言い好かれる個性があった。
1764年9月25日、イギリスのカンバーランドのモーランド・クロスの農場で、キリスト教徒の父チャールズ・クリスチャンと母アンディグソン・クリスチャンとの間に生まれた。10人兄弟であった。彼の先祖はマン島から来ており、農場は先祖から受け継がれてきた。彼の家族は裕福な農場の貴族だったが、父が死んだ事で財政的に苦しくなった。母は彼と彼の兄が良い教育を受けられるように計らったが、しかし、1780年に家族はモーランド・クロスの農場を失ってしまう。17才で彼は家族を支えるためにイギリス海軍に入り、18才で海に出て西インド諸島へ航海に出るイギリス軍艦ケンブリッジ号に乗った。そこでの中尉はウィリアム・ブライであった。1782年にイギリスに帰って、彼はイザベラと言う若い女性と恋に落ちた。彼女は背が高く筋骨たくましい彼が好きだったが、結局彼のいとこの一人と結婚する方を選んだ。彼女にふられて悲嘆に暮れていたクリスチャンだが、海軍に戻って1783年3月、西インド諸島の航海で海軍少尉候補生としてイギリス海軍艦ウリディケ号に乗る。そして、彼は中尉代理に昇進した。また、1788年には商船ブリタニア号のクルーに加わってもいる。司令官はケンブリッジ号の航海で出会ったウィリアム・ブライで、クリスチャンは彼と共に再び西インド諸島に航海に出ることになる。この航海でブライはクリスチャンを第2航海士に昇進させた。
1787年にブライは南太平洋への航海のため、王立協会理事長のジョゼフ・バンクス卿によって権限を与えられた。西インド諸島の奴隷の安い食物を発注するため、タヒチからパンノキを西インド諸島へ輸送するためである。ブライが与えられた船は改装された商船べティア号であったが、バンクス卿によってバウンティ号と名を変えられた。ブライはクリスチャンをバウンティ号の副士官として選び、タヒチへ航海にでた。しかしブライ艦長の態度から船員の多くは不満を抱いていた。1788年から1789年までタヒチに滞在し、パンノキを収穫するのが彼らの目的だったが、島での約6ヶ月間の生活は水夫たちからしてみれば楽園だった。水夫の多くは短気なブライと再び航海に出るのをますます嫌うようになった(3人の水夫が義務を放棄して逃げようとしたため、ブライは鞭打ちを科している。)クリスチャンもその頃、Maimitiというタヒチ女性に恋に落ちていた。
1789年、バウンティ号がついにタヒチから西インド諸島に立った時、クリスチャンら乗組員たちが、ブライに対してついに反乱を起こした。反乱の後、クリスチャンと支持者の水夫たちはブライとブライの支持者たちをバウンティ号から追放し、バウンティ号を乗っ取ってタヒチへ戻った。1789年9月にクリスチャンは南海の未知の島に定住しようと覚悟を決め、22人の反乱者のうち、14人をタヒチに残し、12人のタヒチ人男女数人(クリスチャンが恋をしたMaimitiも含む)を連れて、隠れ住むための未知の無人島を探しに航海にでた。1790年1月15日にクリスチャンたちはピトケアン島に辿り着いた。ピトケアン島に住み着いてから1793年、一緒に連れて来たタヒチ人の反乱によって5人が死んだ。クリスチャンも巻き込まれて死んだとされているが、イギリスの捕鯨船などでイギリスに戻ったと言う噂もあった。
1790年、クリスチャンと妻Maimitiとの間に息子サースディ・オクトバー・クリスチャンが生まれている。クリスチャンの死後、彼の子孫は現在にいたるまで大勢おり、幼女強姦で2004年に解任されたスティーブクリスチャン市長は彼の子孫である。