プラッシーの戦い
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プラッシーの戦い(ぷらっしーのたたかい)は、1757年、インドベンガル地方のプラッシーで行われた、イギリス東インド会社と、連合軍(ムガル帝国ベンガル太守率いる土侯軍と後援するフランス東インド会社)との間で行われた戦いである。七年戦争とも関係し、イギリス・フランス間の植民地を巡る戦いの1つ。
[編集] 経緯
アンボイナ事件(1623年)以降、イギリスはインドへ本格的に進出。その先兵になった東インド会社はボンベイやマドラス、カルカッタに商館を設置、要塞化しながらインド支配の拡大を図った。また、フランスもカルカッタの近くにシャンデルナゴルを建設し、18世紀初めにはイギリス勢力を圧倒した。ガンジス川下流域のベンガル地方は、ムガル帝国時代、絹や木綿の産地であり、藍(インディゴ)やアヘンなどの集散地でもあった。ムガル帝国はこの地に太守(ナワーブ)を置いて支配したが、ヒンドゥー諸勢力の抵抗で分裂状態となる。この中で、各地の太守は実質的に独立勢力化した。かねて対立関係にあったベンガル太守は、東インド会社の要塞化問題を機に軍事衝突事件を引き起こす。
[編集] 英仏代理戦争
1757年、イギリスの軍人クライヴは、東インド会社の軍隊を率いて、フランス勢力と組んだベンガル太守軍のシラージュをカルカッタの北方プラッシーで打ち破った。これでフランスは、インドから撤退することになる。イギリスは、新しいベンガル太守を任命するが、徐々に傀儡化していった。1764年10月、前年ベンガル太守の座を追われたミール=カーシムとアウド太守シュジャー=ウッダウラ、ムガル皇帝シャー=アーラム2世が東インド会社軍とブクサールで戦い、イギリスが勝利した。
イギリス東インド会社が、フランス・ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリスのインド支配は本格化する。1765年、東インド会社はベンガル、オリッサ、ビハールでの租税徴収権を獲得、これを次第に拡大していった。ムガル皇帝は単なる年金受領者になり、インドはイギリスの植民地となっていった。