プリシュティナ
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プリシュティナ(Приштина、Prishtinë)は、セルビアの都市。コソヴォ自治州の州都。近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア領)などが挙げられる。20世紀末のコソヴォ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にある。
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[編集] 人口
アルバニア系住民が多くを占める。ただし、コソヴォ紛争の際に多くのアルバニア系住民が殺害された。その他の民族としては、セルビア人、ボスニア人、ロマ人など。街の中心広場には、中世アルバニアの民族的英雄であるスカンデルベクの像が置かれている。
[編集] 歴史
[編集] 中世から近代
中世にはセルビア王国の都であり、バルカン半島における交易拠点としても重要な役割を果たした。1389年のコソボの戦いでオスマン帝国にセルビアが敗れ、これ以降はイスラーム勢力の統治下におかれた。敗北したものの、この時にオスマン帝国のムラト1世を死へと追いやっており、近代にはいるとこのコソヴォの戦いがセルビア民族主義者によって神話化された。その結果、近代になってセルビア・ナショナリズムが高揚すると、プリシュティナを含むコソヴォは、セルビア民族の歴史にとって象徴的な地域として扱われるようになった。オスマン帝国の支配下では、バルカン半島におけるキリスト教信仰は一定の範囲内で尊重された。しかし、17世紀から18世紀にかけて、主に宗教的な理由からこの地のセルビア人がオーストリア領へと移住し、人口が希薄となった地域にムスリムのアルバニア人が移住した。そのため、中世史においてセルビアと結びつけられるが、民族的にはアルバニア人が居住するという現在の構造が形成された。19世紀末より、プリシュティナなど数カ所でアルバニア人の民族運動も高まった。そのため、アルバニア人にとってもこの地域が民族運動の象徴となった。こうして、のちに勃発するコソヴォ紛争の下地が作られていった。
[編集] 世界大戦とコソヴォ紛争
第一次世界大戦中はオーストリア軍に占領されたが、戦後は再びセルビアの支配下に戻った。ただし、セルビア自体がセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国の一部となった。戦間期にセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国はユーゴスラヴィア王国と改称し、プリシュティナもユーゴスラヴィアの支配下におかれた。第二次世界大戦においては、イタリア軍、ついでドイツ軍に占領されたが、1944年にパルチザンによって解放された。
第二次世界大戦後のユーゴスラヴィアを率いたティトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚した。こうした中で、コソヴォの自治、アルバニアとの合同などを掲げる運動が高まったが、これに対してセルビア政府は強硬策で臨み武力鎮圧も辞さなかった。アルバニア語の使用を抑圧するといった民族抑圧は旧ユーゴスラヴィア解体後に一層激化し、1999年のコソヴォ紛争ではセルビアの軍事介入によって、多くのアルバニア人が虐殺され、公共機関も破壊されるなど甚大な打撃を被った。この軍事制裁措置としてNATOの空爆が行われ、プリシュティナ内におけるセルビアの軍事施設などが攻撃された。その後は国連コソヴォ暫定統治機構(UNMIK)が駐留している。
[編集] 文化
- プリシュティナ大学
[編集] 観光
- クラチャニツァ修道院(14世紀前半に建設された。)