ホイサラ朝
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ホイサラ朝(-ちょう、Hoysala)とは、南インド、現カルナータカ州中南部のマイソール地方を中心に11世紀後半から14世紀初頭に割拠した王朝。
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[編集] 起源~カリヤーニのチャールキヤ朝の封臣(諸侯)時代
始祖とされるヌリパカーマ(1022~47相続)は、マイソール地方に住む山間部族の一首長であったと考えられている。ヌリパカーマの子、ヴィナーヤデーティヤ(1047~98相続)は、カリヤーニのチャールキヤ朝の封臣(諸侯)となり、カーヴェリ川上流のマイソールの北西100kmのドゥバーラサムドラ(ドゥーラサムドラ)を本拠として勢力を伸ばした。ヴィナーヤデーティヤの孫に当たるヴィシュヌヴァルダナ(1110~52相続)のとき、強力な王であったカリヤーニのチャールキヤ朝のヴィクラマディーティヤ6世(位1076~1126)が亡くなると、カリヤーニのチャールキヤ朝の王位継承争いは激しくなって、ホイサラ家の力はますます強大となり、事実上の独立行動に出るようになり、その力はチョーラ朝からマイソールの東方のタラカードを奪うほどであった。またヴィシュヌヴァルダナは、著名な宗教哲学者であったラーマーヌジャに師事してヴィシュヌ派に改宗し、首都にホイサレシューヴァラ寺院などを建設している。
[編集] ホイサラ朝の独立とカーヴェリ川下流域への介入
ヴィシュヌヴァルダナの孫バッラーラ2世(1173相続~,位1191~1217,20)のとき、チャールキヤ朝は、封臣(諸侯)のカラチュリ家に首都のカリヤーニを20数年間も占領されるような状況であった。チャールキヤ朝のソーメシュヴァラ4世はやっとのことで1183年、ヤーダヴァ朝の攻撃で弱まったカラチュリ家からカリヤーニを奪還して即位したがまもなく自らもヤーダヴァ朝の攻撃をうけて南遷せざるを得なかった。バッラーラ2世は、ソーメシュヴァラ4世を討ってこれを滅ぼした。またバッラーラ2世は勢いに乗るヤーダヴァ朝のビッラーマ5世を破って撃退、ヤーダヴァ朝のカーヴェリ川上流域への南進を阻止し、ヤーダヴァ朝が奪ったチャールキヤ領の南半分を獲得した。カリヤーニのチャールキヤ朝の版図は、北西部はヤーダヴァ朝、南西部はホイサラ朝、東側は、東方の現アーンドラ・プラデーシュ州ワランガルを本拠とするカーカティヤ朝によって分割された。バッラーラ2世の子、ナラシンハ2世(位1220~1238)は、チョーラ朝とパーンディヤ朝の抗争の激化に伴い、チョーラ朝と同盟し、カーヴェリ川下流域に進出するようになった。ナラシンハ2世の子、ソーメシュヴァラ(位1238~1262)は、カーヴェリ川下流北岸のカンナヌールを本拠として次子のラーマナータ(位1254~95)とともに共同統治を行い、北側のドーラサムドラは、長子のナラシンハ3世(位1254~92)に任せたため、ホイサラ朝は二つの中心をもつこととなった。このことは、王位継承争いを引き起こすこととなった。
[編集] 再統一から滅亡
ソーメシュヴァラの死後、ドーラサムドラとカンナヌールの争いは続き、ヤーダヴァ朝やパーンディヤ朝の介入もあったが、1300年前後に、ナラシンハ3世の子で、ドーラサムドラの支配者バッラーラ3世(位1291~1342)がカンナヌールのヴィシュヴァナータ(位1295~1300)を滅ぼして王国を統一した。 しかし当時の北インドでは強力なハルジー朝が興り、スルタン、アラーウッディーン・ハルジーは、名将マリク・カーフールを遣わし、1307年、ヤーダヴァ朝の君主を捕らえて壊滅的な打撃を与え、1310年にはゴーダヴァリー川を渡ってホイサラ朝の版図を攻略し、バッラーラ3世を捕虜としてデリーに連行した。1313年、バッラーラ3世は帰国を許されて、難攻不落の城塞都市ヴィジャヤナガルを建設する。ハルジー朝とトゥグルク朝に屈従を強いられながらも一定の勢力を維持し続けた。しかし南方のマドゥライに興ったイスラム王国との激しい抗争の末、1342年、トリチノポリにおけるマドゥライ軍との戦いに敗れて戦死した。子のバッラーラ4世も数年間抵抗を続けるが程なく戦死する。1342年のバッラーラ3世の戦死をもって事実上のホイサラ朝滅亡とみなしている。
ホイサラ朝の歴史は、碑文の解読によって、王を補佐する高官であるマハープラダーナ、地方長官と推察されるダンダーナーヤカのほかサルヴァーディカーリ、セーナーパティなどの官職若しくは称号があったことがわかってはいるが、統治機構がどのようなものであったかまでは分かっていない。
[編集] ホイサラ様式
なお、ホイサラ朝時代は、壁面に細かなレリーフを施して、平面プランは、張り出し部をジグザグ状にもっているために星型になる三つの聖堂が一組になる独特なホイサラ様式の寺院が建てられた。主としてヴィシュヌヴァルダナが首都ドゥーラサムドラに建てたホイサレシューヴァラ寺院、ホイサレシューヴァラ寺院よりやや古いと思われるチェナケシェヴァ寺院が首都のやや南西に位置するベルールに建てられ、さらに南西のカーヴェリー川中流域のソームナートに建てられたケシャヴァ寺院が挙げられる。聖堂の屋根の平面プランは、基部にあわせた星型であるが横から見ると釣り鐘状である。寺院の基部には、最下部に象の列、その上に馬の列、神話的な動物たち、唐草模様、神話的な場面が所狭しと細かく彫り込まれている。
[編集] ホイサラ朝の歴代君主
※記述無しの君主は、上に記された君主の子
- ヌリパカーマ(1022~47相続)
- ヴィナーヤデーティヤ(1047~98相続)
- イエレヤンガ(1063~1100相続)
- バッラーラ1世(1100~1110相続)
- ヴィシュヌヴァルダナ(1110~52相続)バッラーラ1世の兄弟
- ナラシンハ1世(1152~73相続)
- バッラーラ2世(1173相続~,位1191~1217,20)
- ナラシンハ2世(位1220~1238)
- ソーメシュヴァラ(位1238~1262)
カンナヌール王統
- ラーマナータ(位1254~95)ソーメシュヴァラの次子
- ヴィシュヴァナータ(位1295~1300)
ドーラサムドラ王統、
- ナラシンハ3世(位1254~92)ソーメシュヴァラの長子
- バッラーラ3世(位1291~1342)
- カンナヌールを併合し王国統一。しかしマドゥライのイスラム王国との戦いで戦死。
- バッラーラ4世
[編集] 参考文献
- 『アジア歴史事典』8(ヒ~ミ)貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編、平凡社、1961年
- 『世界歴史事典』8(フラ~メト)井上幸治、江上波夫他編、1990年 ISBN 4-582-10308-1(初版1956年)