ポーランド・スウェーデン戦争
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ポーランド・スウェーデン戦争とは、スウェーデン王位を巡るスウェーデン王国とポーランド王国の戦争(1655年-1660年)の事である。ポーランドを中心に起こった「北方戦争」の一部であり、ポーランドでは、「大洪水時代」と呼ばれている。
ポーランド・スウェーデン間の王位継承問題は、グスタフ・アドルフ時代のスウェーデン・ポーランド戦争によってポーランドは、スウェーデン王位要求権を放棄していたが、1654年にスウェーデンの王朝がヴァーサ家からプファルツ家に代わると再び継承問題が再燃した。グスタフ・アドルフ死後の1632年以後にも再燃し、王位継承権を主張していたが、すでにポーランドの国力は衰微しており、深刻な問題ではなかった。
戦争の発端は、1648年にポーランドで起こったウクライナ・コサックの反乱である。同年、ポーランド王ヴワディスワフ4世が死去し、甥のヤン2世カジミェシュが王位を継承した。コサックは新王に忠誠を従わず、ヘーチマンのボフダン・フメリニツキーがヘーチマン国家を形成した。そしてモスクワ大公国(ロシア帝国)に忠誠を誓うのである。ポーランド王はヘーチマン国家を承認せざるを得ず、この時代からおよそ20年間、大洪水時代となり、ポーランドは荒廃した。
そして1654年に、ロシア大動乱で失った領土の失地回復とウクライナを我が物にせんとロシア帝国が介入する。これを見たスウェーデンは、プファルツ家のカール10世グスタフは、スウェーデン王位要求権を放棄させる為にポーランドに侵攻した。「ポーランド・スウェーデン戦争」の開始である。両国に挟撃されたポーランド王ヤン2世は、神聖ローマ帝国のシュレジェンに亡命した。 広大なポーランド王国は、ロシアとスウェーデンによって占領された。ヤン2世は国外からポーランド国民にレジスタンスを呼びかけ、自らも帰国したものの、ロシア・スウェーデンとの戦争に絶えられるはずもなく、止むなくロシアと休戦条約を結ぶ。しかしこれは事実上、ヘーチマン国家の承認を取り消すことに他ならなかった。
こうしてポーランドは、ロシアと結び、まずスウェーデンを撃退させる手段を取った。一方スウェーデンは、宗主国をスウェーデンに代えたブランデンブルク=プロイセンと同盟を結び、ポーランドと対決する。そして1656年、ワルシャワ近郊で、ポーランド・スウェーデン戦争最大の戦闘、ワルシャワの戦いにおいて、ポーランド・ロシア連合軍を撃破した。ポーランドは窮地に陥った。この機に乗じてスウェーデン王カール10世は、ロシアとヘーチマン、ブランデンブルク選帝侯を誘い、史上初の「ポーランド分割」を持ちかけた。しかし余りにも強大化し過ぎたスウェーデンに各国は警戒し、ロシアは交渉に応じなかった。さらにデンマーク王国もネーデルラント連邦共和国(オランダ)も反スウェーデンで一致する。ブランデンブルク選帝侯は中立した。1657年に入ると、新ヘーチマンもポーランド王に忠誠を誓い、スウェーデンは孤立無援の状態となるのである。これによってポーランドは、最悪の状況から脱し、反撃の機会を得る事になった。
しかしスウェーデンは、ポーランドにおいて完全に孤立化したものの、すでに当初の目標はすでに果たしていた。即ち、ポーランドにスウェーデン王位要求権を放棄させる事であった。そしてプロイセン公国は、スウェーデンの宗主下に入っており、スウェーデンにおけるポーランド問題はほぼ解決していた。ここに至って、カール10世がポーランドに残ることは、スウェーデンにとって何の利益にもならない事となった。よって1657年に発令されたデンマークのスウェーデンに対する宣戦布告は、ポーランド問題からの撤収の絶好の機会であった。
こうしてカール10世は、手勢の一部をポーランドに残してドイツ方面へと転戦した。デンマークとの対決のためである。以降、1660年まで実質的にスウェーデンは、デンマークとの戦役、「カール・グスタフ戦争」に突入するのである。なお、ポーランドに駐留していたスウェーデン軍は、1659年にカール・グスタフ戦争によるスウェーデンの戦況悪化によって全軍が撤兵している。この時点で、ポーランド・スウェーデン戦争は、ほぼ終了していたと言える。
1660年2月にカール10世は病死した。そしてその年の4月にオリヴァー条約が結ばれ、スウェーデン・ポーランド間の戦争は終結した。内容はほぼスウェーデンの独り勝ちであった。スウェーデンのプファルツ家のスウェーデン王位が認められ、ポーランドは、王位要求権を完全放棄し、リヴォニアも正式にスウェーデン領と認定された。ただしブランデンブルク・プロイセンは、宗主カール10世が死去した為、スウェーデン、ポーランドからの属国状態から解放された。
この戦争は、ポーランドの没落を決定付けたと言える。カール10世の死によって北方戦争は終結したが、戦争そのものは終結しなかった。ロシア帝国は再びポーランドと戦争を開始し、なお一層、ポーランドの荒廃へと突き進んでいったのである。