ウクライナ
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- ウクライナ
- Україна
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(国旗) 国章 - 国の標語 : Воля, злагода, добро
(ウクライナ語: 自由、調和、善良) - 国歌 : ウクライナは滅びず
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公用語 ウクライナ語 首都 キエフ 最大の都市 キエフ 大統領 ヴィクトル・ユシチェンコ 首相 ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ 面積
- 総計
- 水面積率世界第43位
603,700km²
極僅か人口
- 総計(2004年)
- 人口密度世界第25位
47,732,079人
79人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
4,219億グリブナGDP(MER)
- 合計(2005年)世界第52位
826億ドルGDP(PPP)
- 合計(2004年)
- 1人当り世界第30位
2,991億ドル
6,300ドル独立
- 日付ソビエト連邦より
1991年8月24日通貨 グリブナ(UAH) 時間帯 UTC +2(DST: +3) ccTLD UA 国際電話番号 380
東でロシア連邦、南で黒海、西でハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北でベラルーシに接し、ウクライナのクリミア半島にはクリミア自治共和国がある。歴史的・文化的には中・東ヨーロッパの国々との関係も深い。19世紀より産業の中心地帯として大きな発展を遂げ、20世紀には幾度の戦火に呑まれながらも周辺地域では最大の農産、軍需産業国となった。
ウクライナでは古代より多数の遊牧民が生活しており、9 - 13世紀にはルーシの中心となった。その後、モンゴル帝国やハンガリー王国、ポーランド王国などの支配を受けた。16 - 18世紀にはコサック国家が存在していたが、18世紀末にはロシア帝国領となった。1918年にはいくつかの独立国家が誕生したが、ロシア共産党やポーランドとの戦争に敗れて滅ぼされた。1922年にはソ連に加盟した。ソ連時代には別枠で国際連合(国連)の原加盟国であった。1991年、独立を宣言した。
目次 |
[編集] 国名
正式名称は、ウクライナ語でУкраїнаである。発音は、日本語には「ї」に近い発音がないため表記が困難であるが、「ウクライィーナ」と表現される。ラテン文字転写としてはUkrajinaなどが用いられる。
かつて実質的な公用語として用いられたロシア語ではУкраинаと表記し、ウクライーナのように発音する。
日本語の表記は、ウクライナ。稀にユクライナとも書かれたことがあった。
公式の英語表記はUkraine(ユークレイン、ユークライン)である。この他、各国語の表記のうちスペイン語 Ucrania、ポルトガル語 Ucrânia、ギリシア語 Ουκρανία などでは、/n/ が前進している。このため、日本語発音で「ウクライナ」と言うと、ウクライナ人には「ウクラニア」と言っていると聞き違えられることも少なくない。日本語発音の「ウクライナ」は、ウクライナ語やロシア語の「ウクライィーナ」、「ウクライーナ」という発音より、ポルトガル語等の「ウクラニア」という発音に近いようである。
[編集] 小ロシア
ウクライナは、以前は「小ロシア」と称されており、この名称は現在でも一部で使用されることがある。しかし、この「小」という名称は「大ロシア」であるロシアに比べ侮蔑されているような印象が感ぜられることから、ウクライナ人には好まれていない。ところが、本来は「小」とは文化の中心であるアテネからの距離が「小さい」ということを表しているのであり、むしろ「大ロシア」の方が「大田舎のロシア」を意味しているのである。
[編集] 意味
現在の国名でありウクライナ人の好む方の名称である「ウクライナ」の語源は、「国」・「公国」といった意味であるという説と、「地方」・「縁(へり)」・「僻地」といった意味であるという説がある。
「Україна(ウクライィーナ) / Украина(ウクライーナ)」という語に関連する単語の中でもっとも基本的なもの(一音節の単語なので)とされ、現在でも使用されている「край(クラーイ)」という単語にも「国」と「地方」、「縁」などいくつもの意味がある。これから派生したウクライナ語の「країна(クライィーナ)」という単語は「国」いう意味であるが、一方、ロシア語の「окраина(アクラーイナ)」という単語は「場末」、「町の端っこ」、「はずれ」という意味である。
歴史上では「ウクライナ」と呼ばれる地域は南方のルーシ(キエフ大公の跡継ぎの領土であったペレヤスラブ公国と西の隣国と交流が盛んであったハーリチ・ヴォロディーメィル公国)を指す用語である。その用語は「国」・「公国」という意味があったらしく、そのような意味は中世後期まで受け継がれている(「バルカラバ年代記」、「ペリソプニチア福音」など)。
又、「ウクライナ」と名乗る国家が現れたのは20世紀以降であり、実際にウクライナは一地方名(どこの国の地方であるかは別の問題であるが)であった時期が長かった。特にウクライナ呼ばれる地域が複数あった時代には、名実ともに「Украина」という語は地方の名称であった。
政治的にとった場合、独立ウクライナでは「Україна」という語はあくまで「国」という意味であるべきだが、ロシアの支配側の見解では「ロシアの一地方」であるという意味が都合よい。ロシア語の文法(前置詞の用法)からも、ロシアが「Украина」を「地方」という意味で扱ってきたことは明らかである。よりアカデミックな立場では、「国」か「僻地」か意見の分かれるところであり、語源に関して客観的に間違いないと考えられる結論は現在も出ていない。
[編集] 実用
意味の解釈は、実生活にも大きな影響を及ぼしている。ロシア語では、国や都市に対しては「в(ヴ)」や「из(イズ)」といった前置詞が使用される。だが、ロシア語では従来「Украина」に対しては地方に使用される前置詞「на(ナ)」や「с(ス)」といった前置詞が使用されてきた。ウクライナの独立後は国に対して用いられる「в」や「из」といった前置詞の使用が許されるようになったが、依然として「на」や「с」を用いる「正当なロシア語」を重んじる人々も少なくない。
このことから、「в」や「из」を用いるということは「ウクライナは独立した独自の国家である」ということを強く主張することになる場合がある。逆に、ウクライナが現実に独立国家となっているにも拘らずあえて「на」や「с」を用いるということは「ウクライナはロシアの一地方である」ということを主張しているに等しい。このことは、思いのほか大きな問題になることもある。一般に、ウクライナ人を自認しているウクライナ人に対して「на」や「с」を用いるということは、いちじるしく相手の気分を損ねる危険性がある。一方、「в」や「из」を用いると、「на」や「с」であると「誤り」を指摘するロシア人も多い。これは、ロシア語文法の伝統を尊重する人々やその伝統に沿った教育を受けた人々が、外国人がロシア語を間違ってしまっていると思い、親切で「誤り」を指摘してくれている場合もある。一方、「ウクライナは一体不可分のロシアの一地方である」という強い信念に基づき、あたかもウクライナがロシアと異なる独立国家であると明言しているかのような「誤った」文法を用いることに対し、憤慨している場合もある。
例えば、ロシアの空港でカウンターで「Я еду в Украину.(ヤー・イェードゥ・ヴクライーヌ)」つまり「ウクライナ(国家)に行きます」と言うと、わざわざ「Вы едете на Украину ?(ヴィー・イェーヂェチェ・ナウクライーヌ?)」つまり「ウクライナ(地方)に行くのですね?」と訂正されることもある。
このように、ウクライナの国名の意味をどうとるかは、ロシア語を用いる実生活の上でも大きな問題となってくる。無難な逃げの手としては、ウクライナという名称を極力出さず、「キエフに行きます」のように具体的な都市名や地方名ですませることである。
[編集] 歴史
詳細はウクライナの歴史を参照
[編集] 古代~キエフ・ルーシ時代
紀元前10世紀頃よりウクライナにはさまざまな遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族のスキタイ人は、紀元前6世紀頃キンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸にはギリシャの植民都市が建設され、地中海やメソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、ギリシャ、ローマの文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。2世紀頃に東ゴート族が侵入し、3世紀中頃クリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点は後に都市国家へと発展した。
4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃移住してきたと考えられている東スラブ族を支配した。スラブ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはユダヤ教の遊牧国家であるハザール汗国の支配下にあった。
9世紀頃、首都をキエフとする最初のスラブ人国家、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)が誕生した。この国家は現在のウクライナ・ベラルーシ・ロシアの源流だと考えられている。史料によると、現在のスウェーデン一帯からやって来たヴァイキング(ヴァリャーグとも呼ばれる)たちを公(Князь-王のこと)に据えることによって建国されたと記されている。ヴァリャーグは、もともとこの地の住民であったウクライナ人(当時のルーシ人)と次第に同化していき、ウクライナ史上で初めての強大な王朝であるリューリク朝が繁栄した。
ギリシャとの繋がりが強かったキエフ・ルーシでは988年にウラジミール聖公がキリスト教を受け入れ、ルーシ語での典礼が行われ、ギリシャ・ローマに次ぐ第3のキリスト教圏を確立した。キエフ府主教はビザンツ帝国の衰退が進んだ時期にキエフ総主教に格上げされた。キエフではキエフ大公(Великий князь Київський)とキエフ総主教が近隣の諸公国を支配下に置き、10世紀および11世紀を通じて、キエフ・ルーシはヨーロッパにおける大国の1つとなった。
しかしながら、ヤロスラフ賢公亡き後12世紀以降、内部抗争とペチェネグ人やポロヴェツ人などのトルコ系とされる遊牧民族やハザールなどの絶え間ない攻撃により、キエフ・ルーシは弱体化した。さらに、1240年にはモンゴル帝国の侵略を受け、キエフをはじめとする殆どの都市は壊滅し、キエフ大公による支配体制は滅亡、キエフ公国やウラジーミル大公国など、すべての公国及び共和国はキプチャク汗国に隷属した。西部にはハーリチとヴォルィニという公国が存続したが、14世紀前後にリトアニア大公国とポーランド王国によって征服された。
[編集] コサック時代~帝政ロシア時代
16世紀頃より、ウクライナ南部にはキエフ・ルーシの士族を中心とするウクライナ・コサックの国家が成立した。17世紀にはキエフを再建して本拠地とするなど勢力を拡大し、モスクワ大公国の度重なる侵攻にもかかわらず1世紀の間存続した。
1648年には、首領(ヘーチマン)であるボフダン・フメリニツキー(ボフダーン・フメリニーツィクィイ)の指導するコサックとポーランドの間に戦争が始まると同時に、ウクライナ農民によるユダヤ人の虐殺(ポグロム)も行われた。フメリニツキーは当時のロマノフ朝のツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの助勢を借りて、ついに長年のポーランド支配を断ち切ることに成功したが、数年後の1654年にはモスクワ大公国の保護下に入る形で、ポーランドとモスクワ大公国によって分割され、独立はまたも失われることとなった。このことはウクライナ人にとってはロシア民族共通の敵であるポーランドを対等な連合の下に駆逐したのにも拘らずロシアに裏切られたというように受け取られ、ウクライナ人の反露感情の源泉のひとつとなっている。
その後も、1700年代に始まったロシア帝国(狭義にはモスクワ大公国)・スウェーデンの大北方戦争で、ヘーチマンのイヴァーン・マゼーパは、ロシアからの独立を望みスウェーデンと同盟したが、ポルタヴァの戦いでピョートル1世のモスクワ軍に敗れ、ウクライナの独立は露と消えた。1783年のクリミア汗国の併合などにより、ウクライナ東部と中央部はロシア帝国に併合され、西部はポーランドの支配を経た後、1772年のポーランド分割によってハプスブルク君主国の領土となった。
19世紀に入ると、ロシア帝国の抑圧政策と全ヨーロッパで流行した民族主義の影響により、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。また、現在最初の「ウクライナ文学」とされているイヴァーン・コトリャレーフスキイのパロディー叙事詩「エネイーダ」もこの時期に書かれた。ウクライナ語の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法など様々なものが生み出されたが、最終的にはタラス・シェウチェンコのまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった。なお、ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われており、独自の言語としては公認されていなかった。
[編集] ロシア革命期
1917年のロシア革命を機にウクライナはいくつもの勢力が独自の政府を組織して独立を宣言したが、いずれの勢力も互いに、またペトログラートのボリシェヴィキ革命政府と対立し、特に十月革命以降激しい内戦状態に陥った。これをロシア側ではロシア内戦と呼ぶ「ロシアの内戦」に包含しているが、ウクライナではウクライナ内戦と呼ぶ。同時に、ボリシェヴィキとの戦闘をウクライナ・ソビエト戦争と呼ぶ。また、1918年からはポーランド・ソビエト戦争と呼ばれる戦争が始められたが、その主戦場となったのはウクライナ地方であり、第一次世界大戦時の連合国各国派遣軍やドイツ帝国軍なども加わって激しい戦闘が繰り返された。
主要な国家としては、中部ウクライナから東ウクライナにかけてウクライナ国民共和国、西ウクライナに西ウクライナ国民共和国が成立した。
十月革命時の最大勢力はキエフを首都とするウクライナ中央ラーダのウクライナ国民共和国で、臨時政府派、ボリシェヴィキが続いた。第三勢力のボリシェヴィキと共同して第二勢力の臨時政府派を潰した中央ラーダは、その後ボリシェヴィキの宣戦布告を受け戦争状態に入った。1918年1月には中央ラーダは首都を追われジトーミルで体勢を立て直した。2月に中央同盟国とベレステイスィコ条約を締結したウクライナ国民共和国は、独・墺軍と共同してボリシェヴィキを一挙に壊滅し、クリミア半島に至る広大な領土を手にした。
4月にドイツの軍事力を背景としたクーデターが起こされ、国号はウクライナ国に改められた。同国は安定した発展を見せたが、ドイツの協商国への降伏により自体は一転、ウクライナ国政府はドィレクトーリヤ勢力に敗れ、ドィレクトーリヤはウクライナ国民共和国を復活させた。
一方、西ウクライナでは、ウクライナ民族ラーダがリヴィウを首都とする西ウクライナ国民共和国を成立させた。しかし、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドとの戦争に敗れ、同共和国領はポーランドに併合された。
一方のウクライナ国民共和国もかつての勢いを取り戻すことができず、その後ウクライナは全土で内戦状態に陥った。主な勢力としては、「不可分の大ロシア」を標榜した帝政派の南ロシア軍など白軍(白衛軍)、黒海より侵入し「不可分のロシア」への支持から白軍を支援したフランス軍やイギリス軍、アナキストのネストル・マフノ率いるマフノ運動と呼ばれる農民アナキズムのウクライナ革命蜂起軍、ベッサラビア方面に侵攻したルーマニア軍、西部より侵攻したポーランド軍、そしてロシア・ボリシェヴィキとボロチビストなどのウクライナ・ボリシェヴィキがあった。
マフノ運動は一時期、ボリシェヴィキの赤軍や白軍を放逐した。ウクライナ国民共和国は、マフノ軍や白軍との戦いで消耗し、赤軍に対抗するためポーランドと連合した。ポーランド参戦以降のウクライナの戦いをポーランド・ソビエト戦争と呼ぶことがある。しかし、ポーランドの裏切りや軍隊内での伝染病の発生によりウクライナの命運は尽きた。中央ラーダ・ドィレクトーリヤの残存勢力は、国外へ逃れ亡命ウクライナ国民共和国政府を立ち上げた。
一方、ウクライナ・ボリシェヴィキは、当初はモスクワのボリシェヴィキからは独立した組織であったが、次第にモスクワの支配下に置かれるようになっていった。白軍は一時はモスクワに迫るほどの勢力を持ったが、マフノ軍との戦いによる消耗と英仏軍の干渉の失敗により赤軍に敗れた。
ウクライナの独立勢力のすべてが「反ボリシェヴィキ」で一致していたにも拘らず、互いに協力せず潰し合いとなった最大の原因は、白軍の掲げた「不可分のロシア」という政策と反社会主義思想が原因であったとされる。また、マフノ軍はアナキストでありながら主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因であった。マフノ運動賛同者は、最終的には赤軍によって老若男女ほぼ皆殺しにされた。
[編集] ソビエト連邦時代
内戦は最終的には1921年の白軍の壊滅により終結したが、ウクライナでは1919年のウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国や白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を結成した。当初はウクライナ政府にもある程度の意思決定権が与えられていたが、それは徐々に制限されるようになり、結局ソ連の結成によりまたもやウクライナの独立は失われることとなった。ロシアにとってウクライナはすべての産業の中心地であり、手放すわけにはいかなかった。また、内戦の終結後西部のハリチナー地方など一部地域はポーランド領となった。ルーマニアはウクライナの一部の併合により「大ルーマニア」の夢を達成した。
1920年代にはウクライナ人への懐柔策として「ウクライナ政策」が採られた。
ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年―1922年、1932年―1933年、後者は2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定されている)に見舞われ、推定で、400万から1000万人が亡くなった。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。
この背景には、レーニンやスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとスターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、即ちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられ、結果ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長く採られることになった。
大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号をウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと変更した。
第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナをウクライナに組み入れた。その中で一時カルパト・ウクライナの独立が宣言されたが、ナチス・ドイツ軍は同盟国であるハンガリーへその領土を組み込んだ。1941年以降の独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。
ナチス・ドイツ軍は当初「解放者」([1])として歓迎された面もあり、親ドイツ派の自由ウクライナが結成され、ウクライナ人の武装親衛隊が結成された。しかし、彼らの目的であるウクライナの政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。ドイツ軍は、第一次世界大戦のときと同様ウクライナを食糧調達のために利用することを目的としていたのであり、ウクライナの「解放者」であるはずもなかった。かねてより独立活動を行ってきたウクライナ民族主義者組織 (OUN)が1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。当時のソ連軍兵士1100万人の内、4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。
一方、ウクライナ蜂起軍 (UPA)などウクライナのパルチザンはドイツ軍、ソ連軍の双方と戦ったが、世界のいずれの国家からも支援を受けられなかったこともあり、結局ウクライナの独立は成功しなかった。ウクライナは第二次大戦において最も激しい戦場になったとされ、その傷跡は今日にまで各地に残されている。ドイツ空軍機による破壊は文化財にも及び、多くの歴史的建造物が失われた。ソ連政府は、ウクライナ人への懐柔策として「南方戦線」と呼ばれていたこの地域の戦線を「ウクライナ戦線」と命名し、ウクライナ人を前線へ投入した。
第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」と言われた。
1954年、ニキータ・フルシチョフにより、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランドに対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。
1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。(チェルノブイリ原子力発電所を参照)
[編集] 独立ウクライナ時代
1991年、ソ連崩壊に伴って新たな独立国家ウクライナとなり、独立国家共同体(СНГ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ民族共和国の中枢機関であったウクライナ中央ラーダの正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーベツィ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。
2004年、総選挙の混乱からオレンジ革命が起き、新政府が樹立された。
2005年、ロシア側より天然ガスの料金を倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(ロシア・ウクライナガス紛争参照のこと)。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。
2006年6月22日ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」及び社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、共産党の支持を受け、社会党党首モロス氏が最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首ヤヌコヴィッチ氏の首相指名を提案。結果、8月にヤヌコヴィッチ内閣が成立した。
[編集] 政治
詳細はウクライナの政治を参照
ウクライナの政体は、司法・立法・行政の三権が分立する議会制民主主義(共和制)である。大統領は、5年任期で国民投票によって選ばれ、首相や政府の閣僚を任命する権限をもつが、それには議会の承認を得なければならない。
ウクライナの国会は、「ウクライナ最高会議」を意味する「ヴェルホーヴナ・ラーダ・ウクライィーヌィ」(Верховна Рада України;Verkhovna Rada Ukraijny)と呼ばれ、一院制で450議席を有する。
全議席は全国区の比例代表制によって選出されるが、政党もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。2006年の選挙では議席を獲得した政党は5党。
議員の任期は5年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可および首相の承認・罷免、閣僚の承認・罷免を行う。
[編集] 2004年ウクライナ大統領選挙
詳細は2004年ウクライナ大統領選挙を参照
2004年、クチマ大統領の任期満了に伴い大統領選挙がおこなわれた。
与党の推す親ロシア派のヤヌコヴィッチ首相と、親欧米派の野党指導者・ユシチェンコ元首相の一騎打ちという形になった。10月31日の第1回投票ではユシチェンコが首位に立つが、僅か15万票差であった。
11月21日の決選投票の開票の結果、ヤヌコヴィッチの当選が発表される。しかし、ユシチェンコ陣営は11月22日夜、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾した。これにより首都キエフを中心に、ストライキなどの大規模な政治運動が起こった(オレンジ革命)。
欧米諸国の圧力もあり再選挙が行われることとなり、12月26日に実施された再決選投票でユシチェンコ元首相の当選が確実になった。ヤヌコヴィッチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが野党による政府施設の封鎖が起こり、30日には提訴が却下された。翌2005年1月23日にユシチェンコ元首相は正式に大統領に就任し、この争いは一応の決着を見せた。
[編集] ビザ
ユシチェンコ大統領は2005年7月19日、同年8月1日より日本国民がウクライナに入国する際のビザ(査証)を免除することを定めた大統領令を布告した。しかしながら、2007年1月現在、ウクライナ国民の日本への入国には依然としてビザが必要。
[編集] 外交
ユシチェンコ大統領の就任当初は、ロシアよりもEU(欧州連合)諸国との関係を強化することを目指していた。、同様の立場を取るグルジア・アゼルバイジャン・モルドヴァとともにGUAM(4カ国の頭文字)と呼ばれる連合を結成し、また、同国自身が将来的にはEUへの加盟をさせようとしているとも伝えられる。
一方で、ウクライナ経済はロシアとの関係を悪化させた事により急速に悪化。そのため、大統領はロシアとの関係に対する意見の相違からティモシェンコ首相を解任。その後は頻繁にロシアを訪問し、ロシアとの政治的・経済的関係を強化させようとするなど、現在ではロシアとの関係修復も模索している。
[編集] 新内閣発足
2006年8月4日、ウクライナ議会は、ドネツクを地盤とする地域党のヴィクトル・ヤヌコヴィッチ党首(58)を賛成271で首相に選出し、新内閣を一括承認した。しかし、首相承認投票では、大統領与党「われらのウクライナ」から半数以上の議員が反対・棄権・欠席に回り、大連立に不満が強いことが示された。新首相は第一副首相兼財務相にアザロフ、エネルギー担当副首相にクリュエフなどを選び、大統領は親欧米政策を推進したタラシュク外相とフリツェンコ国防相を指名した。
連立政権は、地域党、「われらのウクライナ」、社会党、共産党の4勢力で構成。ティモシェンコ連合だけが野党に回った。
[編集] 地方行政区分と都市
ウクライナは、24の州と、クリミアにある1つの自治共和国、そして2つの特別市から構成される。 詳細はウクライナの地方行政区分を参照
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[編集] 地理
詳細はウクライナの地理を参照
ウクライナの国土のほとんどは、肥沃な平原、ステップ(草原)、高原で占められている。ドニエプル川、ドネツ川、ドニエステル川が横切っており、南のブーフ川とともに、黒海、アゾフ海に注ぎ込んでいる。
南西部にあるドナウ川のデルタ地帯はルーマニアとの国境になっている。
山岳地帯は、クリミア半島の最南端の沿岸部と西部のウクライナ・カルパト山脈にしかない。最高峰はカルパト山脈にあるホヴェールラ峰(Говерла、Hoverla)で標高2,061メートルある。なお、これ以外の地域も平坦というわけではなく、東ヨーロッパの中では比較的起伏の多い地形をしている。
気候は温暖な大陸性気候であるが、クリミア半島の南岸は地中海性気候により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くに従って寒くなる。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。
[編集] 経済
詳細はウクライナの経済を参照
ソビエト連邦時代は、連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅れと相まって、他国の影響を受けやすいものになっている。
1991年、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内で強い抵抗が起きたことから、すぐに改革は停止され、過去に逆行するような政策がとられた。1999年の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ。1993年の末頃には、通貨政策の失敗によりほとんどハイパーインフレーションの段階にまで至った。
現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。
国際通貨基金(IMF)を初めとする国際機関は、金融支援を早く引き上げられるように、ウクライナの改革の進展と範囲の拡大を支援している。
2000年の国内総生産(GDP)は、輸出の伸びに支えられて6%という成長をみせ、工業生産高の成長も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。経済の成長は2001年も続き、実質国内総生産で9%、工業生産高で14%以上伸びた。2002年から2004年の間も、中国への鉄鋼輸出の急増に起因して急成長を続けた。
ところが2005年、ユシチェンコ政権の成立後暗転し始める。それまでの好調なウクライナ経済は、ロシアからの安価なエネルギー資源及び原料の供給、経済発展を続けるロシアや中国への輸出等によって支えられていた。しかしユシチェンコ大統領は就任直後、ロシアとは距離を置き、EUやアメリカなどとの関係を強化する姿勢を示した。大統領はアメリカなど西欧諸国からの投資拡大を見込んでいたが、実際にはそれほど投資は増えず、逆にロシアからの安価な資源供給が受けられなくなり、またロシアに並ぶ輸出相手国であった中国の需要が減少するなど経済環境が悪化。このため、経済成長率はわずか1パーセント程度まで下落した。
ロシアとの関係が急激に悪化し経済が失速する中で、特にウクライナ経済を牽引していた東部地域の住民を中心に、ロシアとの関係改善を望む声が急速に高まった。危機感を覚えた大統領はまずティモシェンコ首相を解任。ついでモスクワを訪問し、「ロシアは我々の永遠の戦略的パートナーだ」と発言するなど、ロシアとの関係修復に奔走した。しかし未だロシアとの関係修復は難しいようで、現在のところウクライナ経済は低迷から抜け出せずにいる。
[編集] 国民
詳細はウクライナの国民を参照
民族構成は、全人口の80%がウクライナ人である。他に少数派としてはロシア人、ベラルーシ人、モルドヴァ人、クリミア人、タタール人、ブルガリア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ポーランド人、ユダヤ人がいる。
東部や南東部の産業地帯は最も人口が集中しており、全人口の70%が都市部に住んでいる。
主要な言語は、唯一の国語・公用語であるウクライナ語である。公式統計によれば、ウクライナ語を母語とする国民は7割に達する。また、多くの国民はウクライナ語とロシア語の二言語を理解する。ロシア語は、公式なステイタスを持たないが、ハルキヴなどの東部、オデッサなどの南部、キエフなどの中部を中心に全土で広範囲に渡って話される。西部ではウクライナ語人口が増えロシア語は一般的ではない。ウクライナ語、ロシア語は、ともに東スラヴ語に属し、近似した言語であるが、ウクライナ語はポーランド語やチェコ語など西スラヴ語に近い部分も多い。なお、ウクライナ語においては多数の方言が存在している。
主な宗教は、東方正教の一つであるウクライナ正教である。ウクライナ正教はモスクワ総主教に属していたが、ウクライナの独立とともに、モスクワ主教から分離独立したキエフ主教が設立された。他に少数派として、ウクライナ・カトリック(ユニエイト(ウニアット)・東方典礼)、ウクライナ自治正教会、ラテン典礼、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム教の共同体がある。
[編集] 文化
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Новий рік | |
1月7日 | クリスマス | Різдво Христове | ウクライナ正教 |
3月8日 | 国際女性デー | Міжнародний жіночий День | |
5月1日 | 労働の日 | День міжнародної солідарності трудящих | 旧 メーデー |
移動祝日 | 復活祭 | Великдень | ウクライナ正教 |
5月9日 | 勝利記念日 | День Перемоги | 対ドイツ戦勝記念日 |
復活祭の第8日曜日 | 三位一体の日 | Трійця | ウクライナ正教 |
6月28日 | 憲法記念日 | День Конституції | 1996年 |
8月24日 | 独立記念日 | День Незалежності | 1991年、同年12月1日国民投票により採用 |
[編集] 文学
詳細はウクライナ文学を参照 現代ウクライナ作家: ユリー・アンズロホウィッチ; リューボコ・デーレシ;
[編集] ウクライナ出身の有名人
詳細はウクライナ人の一覧を参照
[編集] スポーツ
- アンドレイ・シェフチェンコ Андрій Шевченко サッカー選手(FAプレミアリーグ(イングランド)、チェルシー所属、現ウクライナ代表)
- アンドレイ・ヴォロニン Андрій Воронін サッカー選手(ドイツ、バイヤー・レバークーゼン所属、同国代表)
- セルゲイ・レブロフ Сергій Ребров サッカー選手(FAプレミアリーグ(イングランド)、ウェストハム所属、同国代表)
- オレグ・ブロヒン Олег Блохін 元ソ連代表、現サッカーウクライナ代表監督・1975年バロンドール受賞者)
- ビタリ・クリチコ Віталій Кличко プロボクサー(WBC世界ヘビー級王者)
- ウラジミール・クリチコ Володимир Кличко プロボクサー(元WBO世界ヘビー級王者)
- セルゲイ・ブブカ Сергій Бубка 陸上選手(男子棒高跳び世界記録保持者)
- イゴール・ボブチャンチン Ігор Вовчаншин 総合格闘家
- エメリヤーエンコ・ヒョードル Федір Ємельяненко 総合格闘家、PRIDEヘビー級王者、2歳でロシアに移住。
- ヤフラス・ポポヴィッチ Ярослав Попович 自転車プロロードレース選手
[編集] 科学
- ウラジーミル・ドリンフェルト 数学者(フィールズ賞受賞者)
- イズライル・ゲルファント 数学者
- スタニスラウ・ウラム 物理学者(水爆開発)・数学者
[編集] 音楽・芸術
- クヴィートカ・ツィースィク Квітка Цісик 歌手
- マリーヤ・ブルマーカ Марія Бурмака 歌手
- ヴィアーグラ Віа-Гра 歌手グループ
- アリョーナ・ヴィンニーツカヤ Альона Вінницька 歌手
- ヴェールカ・セルヂューチュカ Вєрка Сердючка 歌手
- レオ・シロタ ピアニスト・ベアテ・シロタ・ゴードンの父
- ヴラジーミル・ホロヴィッツ Володимир Горовіц ピアニスト(1903 - 1989)
- セルゲイ・プロコフィエフ Сергій Прокофєв 作曲家(1891 - 1953)
- セルジュ・リファール Сергій Лифар 振付家、舞踏家(1905-1986) リファール国際バレエ・コンクール
- ウラディミール・マラーホフ 、バレエダンサー
[編集] 映画
- ミラ・ジョヴォヴィッチ Мила Йовович 女優、父親はモンテネグロ人
[編集] 料理
[編集] 軍事
ウクライナ軍は、地上軍(陸軍)、海軍、空軍の3軍種から成る。2005年末の時点で、総員24万5千人(内、軍人18万人)。
ウクライナには、ウクライナ軍以外に、以下の準軍事組織が存在する。
[編集] かつてのウクライナの国家
現代のウクライナ領土にかつて存在した国家。また、ウクライナ人による国家。但し、ロシア帝国やポーランド王国のような宗主国家、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国やソビエト連邦まで網羅するとかえって利便性が低下するため、便宜上省略。
[編集] 近代まで
- キエフ大公国
- ハールィチ・ヴォルィーニ公国
- ヘーチマン国家
[編集] 近現代
中央ラーダ・ペトリューラ派
- ウクライナ国民共和国(人民共和国、民族共和国とも翻訳)
ヘーチマン政府派
国民ラーダ派
- 西ウクライナ国民共和国(人民共和国、民族共和国とも翻訳)
ボリシェヴィキ派
- ウクライナ人民共和国(ボリシェヴィキ派)
- ドネツ=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国
- オデッサ・ソビエト共和国
- タヴリダ・ソビエト共和国
- クリミア・ソビエト社会主義共和国
- ベッサラビア・ソビエト社会主義共和国
- ガリツィヤ・ソビエト社会主義共和国
- クリミア自治ソビエト社会主義共和国
- ウクライナ社会主義ソビエト共和国
- ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
その他
- フツル共和国
- カルパト・ウクライナ
- ウクライナ独立国
など。
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
- 政府公式サイト(ウクライナ語、ロシア語、英語)
- 大統領府公式サイト(ウクライナ語、ロシア語、英語)
- 最高会議公式サイト(ウクライナ語、英語)
- 在日ウクライナ大使館(ウクライナ語、英語、日本語)
- 在ウクライナ日本国大使館(日本語、英語、ウクライナ語)
[編集] その他
- 世界の国々 > ヨーロッパ
-
西欧: アイルランド | アンドラ | イギリス | オランダ | フランス | ベルギー | リヒテンシュタイン | ルクセンブルク 東欧: アルバニア | ウクライナ | クロアチア | スロベニア | セルビア | ブルガリア | ベラルーシ | ボスニア・ヘルツェゴビナ | マケドニア | モルドバ | モンテネグロ | ルーマニア | ロシア 中欧: オーストリア | スイス | スロバキア | チェコ | ポーランド | ドイツ | ハンガリー 南欧: イタリア | ギリシャ | サンマリノ | スペイン | バチカン | ポルトガル | マルタ | モナコ 北欧: アイスランド | スウェーデン | デンマーク | ノルウェー | フィンランド バルト三国: エストニア | ラトビア | リトアニア
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