マルクス主義青年同盟
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マルクス主義青年同盟(マルクスしゅぎせいねんどうめい)は、日本の新左翼党派。毛沢東思想の影響を受けた共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派~日本マルクスレーニン主義者同盟の系譜に属し、ML同盟が崩壊後再結集した解放委員会と京都大学レーニン研究会、京都大学教養部戦線などが源流。
1973年10月結成。当初はマルクス主義青年同盟(準)を名乗った。(準)とは党に向かう過渡期の意味があった。8.25共闘(1972.8・25 ベトナム8月革命支援集会を共産同赤軍派・京都大学レーニン研究会・旧ML派・共労党赤色戦線が開催。通称「8・25共闘会議」を結成する)に結集していた赤ヘルノンセクト学生が法大・日大・大東文化大・東洋大を初めとして参加していった。しかし結成直後から解放委とレーニン研の確執が表面に出てくる。機関紙「党旗」には『L研主義打倒』のスローガンが一面に記載され、赤白赤のモヒカン旗が独自集会にも登場し解放委のヘゲモニーが確立されL研部分と各大学の学生が脱盟する。この間の整風運動と称する党内闘争は悲惨を極めたらしい。その後迷彩柄の戦闘服に竹槍、「インターナショナル」などの労働歌をけたたましく鳴らす街宣車で戦線統一を呼びかけたが、台風の目にはなれなかった(軍服左翼、駅前左翼などと揶揄されていた)。「マル青同政治連盟」名義で東京都知事選挙にも出馬。選挙公報で「戦争を内乱へ」と呼びかけたが、支持は得られなかった。他候補を右翼系候補と挟み撃ちにして妨害するなどの選挙戦術も批判された。
その後、戦術を転換し、民主統一同盟と改称。小沢一郎・小泉純一郎・松下政経塾支持などを打ち出した。
[編集] 岡山大学虐殺事件
1975年4月、拠点化を狙って軍服、軍靴姿で岡山大学に登場した「マル青同」は反発する多くの学生に暴行を働いた。中でも自主管理・自主運営で無条件新寮建設を闘って来た北津寮に対し「寮闘争は反革命経済闘争である」と決め付け、「マル青同の統制に服するのか否か」「我々は我々以外の一切を許さない」とナイフをちらつかせて寮生を恫喝した。
寮生の反発にあい、拠点化に失敗した彼らは5月25日夕方、30人余りの部隊で寮を取り囲み、寮生に無差別のテロ、リンチを開始した。午後5時過ぎ彼らはいったん引き上げたので、寮生は医師を呼んだが、その場では手の施し様が無った。ケガ人と看護の者を残し寮生が学内抗議デモに出た途中、「マル青同」は寮を再襲撃し、医師が「死んでしまう」と止めるのも無視しケガ人にリンチを重ねた。これに対しデモに出ていた寮生約100名は教養部東南に集り、人質の安否を気づかっていた。午後8時10分頃、「マル青同」はマイクでの「殺せ! ひき殺せ!」の絶叫と共に、宣伝カーを全速力で寮生の中に突っ込ませ、大沢真(理学部一年)をひき殺し多くの寮生に重軽傷を負わした。大沢の遺体は29日、顔をつぶされた無惨な姿で山中に埋められているのが発見された。
このことについて、今でも見解を示していないばかりか、謝罪もしていない。