ヤマハ・YZR500
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YZR500は、ヤマハ発動機がオートバイロードレース世界選手権500ccクラスに開発・投入した、競技専用二輪車両(オートバイ)の車種名。
[編集] YZR500の歴史
1973年、YZR500の第一号車として水冷2ストローク並列4気筒エンジンを搭載した0W20(ゼロ・ダブル20)がデビュー。ヤーノ・サーリネンの手により、同年のフランスGPで初勝利。以後YZR500は1981年まで並列4気筒エンジンで進化を続け、その間にジャコモ・アゴスチーニ(1975年)、ケニー・ロバーツ(1978年~1980年)というチャンピオンを生んだ。日本車が世界GPの500ccクラスでライダータイトルを獲得したのは、'75年のアゴスチーニ+YZR500が初(メーカータイトルはホンダが1966年に獲得している)。
1981年シーズンにスクエア4エンジン搭載の0W54がデビュー。最終戦でバリー・シーンが優勝に導く。
1982年、前年デビューしたスクエア4エンジンの熟成型0W60に加えて、新たにV4(V型4気筒)エンジンを搭載した0W61が登場する。しかし早すぎた投入となったか、3年連続チャンピオン経験者のケニー・ロバーツや2年連続チャンピオン経験者のバリー・シーンにすら手に余る難題を抱えていた。同時出走したスクエア4の0W60はグレーム・クロスビー(ロバーツの補佐役)によりランキング2位を得る。なお0W61などのヤマハV4は、正確に言うとV4(1本のクランクシャフトに4つのピストン)ではなく、スクエア4の変形タイプ(2本のクランクシャフトを持つ)だった。
そして1983年。2ストローク500cc・ロータリーディスクバルブの2軸クランクV4エンジン(スクエア4の変形)を、新設計のセミ・モノコック型アルミフレーム(アルミ・デルタボックスフレーム)に搭載した0W70がデビューする。この「デルタボックスとV4エンジン」というパッケージは、その後のYZR500の基本形となった。ケニー・ロバーツが6勝をマークしランキング2位。1984年、V4エンジンはシーズン途中にロータリーディスクバルブからクランクケースリードバルブに仕様変更を受け、メインフレームも大きく進化。ロバーツの後輩であるエディ・ローソンがシーズン4勝を上げ世界タイトルを獲得する。。1985年以降も毎年熟成を重ね、1986年・1988年にローソン、1990年~1992年にウェイン・レイニーがそれぞれライダースチャンピオンを獲得している。
2002年、WGP最高峰クラスがGP500から4ストロークマシン主体のMotoGPへ移行。2ストローク500ccマシンにも参戦の道は残されたが、レギュレーションの関係から4ストロークマシンでなければ勝てない状況となり、ヤマハの最高峰グランプリマシンの座を4ストロークのYZR-M1に譲り30年の歴史に終止符を打った。
[編集] 主なエピソード
- YZR500の1983年モデルである0W70は、ライバルであるホンダ・NS500にくらべると始動性が悪かったと言われ、スタートでは後方に沈んでしまいやすく、予選での好位置を生かせないことが多かった。一説に0W70がロータリーディスクバルブを採用していたのが原因だという(NS500はリードバルブ)この始動性の悪さはヤマハの悪しき伝統ともいえるかもしれない。K・ロバーツ(シニア)は予選で好位置を得ながらもスタートで後続に沈んでしまい、レコードを連発しながらも結局はトップに届かないレース展開が多かった。理論が先行して実戦に向かない点で、NS500とは対極に位置する車両である。
- 1992年のワークスマシンはドライバビリティに問題を抱えていたと見る向きもあり、チームロバーツはハリス製(サードパーティー製の年落ちコピー)フレームを使用して不振を脱却したという説もある。元設計は1990年のYZR500であり、車体そのものはそれなりに優秀だったようだ。
- YZRとは“Y”ヤマハの“Z”究極の“R”レーサーの意。
- 1992年以降、タイトルを獲得したことはない。
カテゴリ: スタブ | レーサー (オートバイ)