ユトランド半島
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ユトランド半島(デンマーク語でJylland、ドイツ語でJütland)はヨーロッパ大陸北にあたる半島で、デンマーク王国の本土とドイツ連邦共和国の北部をなしている。地形はなだらかな丘からなり、気候は冷涼である。北海とバルト海を分かつ半島である。面積は29,775km²、人口は2,491,852人(2004年)。なお、デンマーク王国の首都コペンハーゲンは、大陸側にはなく、スカンジナビア半島との間に浮かぶシェラン島(Sjælland)にある。
半島の大半はデンマーク王国に占められている。南部はドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州であり、この地は両国の係争地であり、最近1920年にデンマークに北シュレスヴィヒが返還された。
ユトランド半島のデンマーク側の最大の都市はオーフス、オールボー、エスビャル(Esbjerg)、フレデリクスハウン(Frederikshavn)、Randers、Kolding、Silkeborg、Vejle、ViborgとHorsensである。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の5つの主要都市は キール、リューベック、フレンスブルク、ノイミュンスター、 ノルトシュタット(Norderstedt)だが、リューベックとノルトシュタットはユトランド半島ではない。
[編集] 歴史
ユトランドは歴史的にデンマークの3つの主要な部分あるいは領土の一つであった。
450年頃、アングル人、サクソン人、ジュート人および一部のバンダル人は、ユトランド半島を含むヨーロッパ大陸からブリテン島に民族移動を開始した。アングル人は、自分たちの部族名をブリテン島に新たに建国された王国に冠したが、それがイングランド(アングル人の国)の名称の起源である。この民族移動は、フン族のアジアからヨーロッパへの侵攻が遠因だと考えられているが、より直接的な原因はデーン人のこの地への到来であろう。なぜならデーン人は、先住民族であるジュート人と数多くの凄惨な争いを繰り返したことが知られているからである。デーン人の祖先は、有史以前、スカンジナビア半島のウップサーラ(現・スウェーデン領)周辺を本拠地としたオーロフ王であるが、彼らはかつて祖先が南下したであろうユトランド半島を逆にたどることになったのである。しかし同時にデーン人とジュート人との抗争は、両者の混血が進むにつれて減っていった。
デーン人は、キリスト教徒であるフランク人皇帝の侵略に対し、自己防衛のために少なからぬ努力を払った。重要なものとしては、「ダンヴィルク」(Danevirk、デーン人の仕事)と呼ばれる城壁を、北海沿岸からバルト海にかけて構築したことがあげられる。
カール大帝は、バルト海ぞいの東ユトランド(のちのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方とメクレンブルク地方)の非キリスト教徒のサクソン人を駆逐し、代わりにカール大帝に忠誠を誓い、キリスト教に改宗したスラブ系ヴェンデ族の一集団であるObotrites族を移住させた。
ユトランド半島で話されるデンマーク語は、特徴的なユトランド訛りをもつ。標準デンマーク語とユトランド訛りのデンマーク語の違いは、しばしば標準デンマーク語とスウェーデン語の違いより大きいといわれる。これはLinguasphereによる言語分類においても同様である。
バルト海から北海への輸送の便をはかるため、運河が半島を横断して建設され、18世紀末のエイデル運河とキール運河(1895年完成)は、現在でも使用されている。
この半島の南部はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の領域で、デンマークとドイツとの間の領土争いが絶えず、1864年にはデンマーク戦争が起きている。
第一次世界大戦におけるユトランド沖海戦は、史上最大の海戦のひとつである。イギリス海軍とドイツ海軍がユトランド半島沖で激しい戦闘を繰り広げ、双方が大きな人的損害と艦船の喪失をこうむった。イギリス海軍の方が直接の損害は大きかったが、その艦隊(連合艦隊、Grand Fleet)の交戦能力を維持することができたのに対し、主要艦船に大きな損害を受けたドイツ海軍は、その艦隊(ドイツ高海艦隊、German High Seas Fleet)の交戦能力を維持することができず、以後、大規模な水上決戦を避けて潜水艦作戦へと戦術を転換することになった。