ユナイテッド航空232便不時着事故
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ユナイテッド航空232便 緊急着陸事故(-こうくう232びん きんきゅうちゃくりくじこ)は、1989年7月19日に、ユナイテッド航空の定期232便が油圧操縦不能のままアイオワ州スーシティのスーゲートウェイ空港に緊急着陸し、大破した事故をいう。乗員乗客296人中111人が死亡した。
なお、上記、ユナイテッド航空の定期232便は、「UA232」「UAL232」とも表記する。識別信号は「ユナイテッド232ヘビー」。ヘビーは広胴機を意味する。事故時に使用されていた機体は、ダグラス式DC-10-10型、機体記号N1819Uで、1973年の製造だった。
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[編集] 事故の概要
UA232便の飛行予定はコロラド州デンバーのステープルトン国際空港発、イリノイ州シカゴのオヘア国際空港経由でペンシルバニア州フィラデルフィア国際空港へ向かう行路であった。
中部夏時間の14時9分に離陸した当該機はアイオワ州上空11,000m(37,000フィート)付近を巡航飛行していた15時16分、機体尾部の第2エンジンのチタン合金製ファンブレードが、内在していた製造時の微少な金属構造欠陥から、疲労破壊を起して3つの部分に破断し飛散した。
飛散したファンブレードの破片は機体を貫通し、3系統の油圧操縦系統の全てを破断したため、UA232便はエンジン出力の制御以外の操縦(方向舵や昇降舵の操舵など)が全くできない状態に陥った。
なお、事故の発端となったファンブレードの構造欠陥は、製造元のゼネラルエレクトリックやユナイテッド航空整備部門の探傷検査で見落とされ、事故の発生を防ぐ事ができなかった。
[編集] 運航乗員の対応
機長のアルフレッド・C・ヘインズを始めとする3名の運航乗務員、および非番で便乗していて事故に遭遇、ヘインズに支援を要請された機長(兼任DC-10教官)デニス・E・フィッチは目視点検により、当該機は油圧系統が3系統全て切断され全滅してしまった(=操舵不能になった)ことを知る。
この緊急事態にも、フィッチが日本航空123便墜落事故の教訓から油圧系統が全滅した場合の操縦方法を研究しシミュレータにより訓練していたことと、ヘインズ達232便運航乗務員は極めて豊富な経験を有していたことが幸いした。彼らは残る1番(右翼)および3番(左翼)エンジンの推力操作だけで、機体の姿勢を立て直した。そして、アイオワ州スーシティのスーゲートウェイ空港(IATA: SUX/ICAO: KSUX)までたどり着き、冷静沈着に不時着を試みた。彼らの行動はクルーリソースマネージメント (CRM; en:Crew (or Cockpit) Resource Management) の成功例として全世界に知られることになった。
[編集] 結果
運航乗務員の卓越した技能と努力により不可能と考えられた不時着を敢行した。管制官や運航乗務員は滑走路31(滑走路延長2,744m)に着陸させようとしたが、障害物を避ける様に機動した結果、閉鎖されていた滑走路22(滑走路延長2,012m)に正対することになった。管制官は閉鎖されていた滑走路に待機していた消防隊、救急隊などを移動させた上で232便に着陸を許可した。
232便は接地寸前までかなり良い精度で滑走路に正対することができたが、接地寸前に機体のバランスが崩れて翼端が滑走路に接触して発火、機体は文字通り火の車のように回転しながら分解しつつ大破炎上した。しかし、地上の消防救急隊 (CFR) の懸命な活動により、乗員乗客296名中185名が生存出来た。また、空港は数日前に火災訓練がおこなわれており(一部の人は訓練自体に疑問をもってはいたが)、その経験もたぶんに生かされていた。
本件事故は、1992年アメリカでテレビ映画『Crash Landing: The Rescue of Flight 232(邦題:レスキューズ/緊急着陸UA232)』に描かれることなった。また、「ナショナルジオグラフィックチャンネル」でも本件事故が紹介された。
また、本件事故を調査した国家運輸安全委員会 (NTSB) はクルーの行動を「期待以上」と賞賛するとともに、油圧操舵不能状態の機体を無事着陸させる訓練を運航乗務員に施すことは事実上不可能であると表明した。
アメリカ航空宇宙局(NASA)は本件事故および日航123便事故の発生に鑑み、対応策として、舵面を使用出来ない場合にコンピュータによるエンジンコントロールで航空機を操縦し、着陸させる方法を開発している。
[編集] 運航乗務員の略歴
事故当時の運航乗務員の略歴は次のとおり。
- 機長:アルフレッド・C・ヘインズ (Alfred C. Haynes) 当時57歳。
- ユナイテッド航空に1956年2月入社。総飛行時間29,967時間、そのうちDC-10での飛行時間は7,190時間で、DC-10とB727の操縦資格を持つ。
- ファーストオフィサー:ウィリアム・R・レコーズ (William R. Records) 当時48歳。
- セカンドオフィサー:ダドリー・J・ドヴォラーク (Dudley J. Dvorak) 当時51歳。
- ユナイテッド航空に1986年5月入社。セカンドオフィサー(≒航空機関士)としての総飛行時間はおよそ15,000時間。そのうちB727での飛行時間は1,903時間、DC-10での飛行時間は33時間。
- 機長(DC-10教官兼任):デニス・E・フィッチ (Dennis E. Fitch) 当時46歳。
- 空軍州兵として約1,500時間程飛行した後、ユナイテッド航空に1968年2月入社。ユナイテッド航空におけるDC-10の飛行時間は総計2,987時間、内訳はセカンドオフィサーとして1,943時間、ファーストオフィサーとして965時間、機長として79時間。当時デンバーのユナイテッド航空訓練センターで教官(訓練チェッカー)として勤務していた。事故機には非番で便乗しており、事故発生後は不時着の瞬間まで彼が事故機のスラストレバー(エンジン推力制御レバー。自動車のアクセルペダルに相当)を握った。彼は日本航空123便事故の教訓から油圧が抜けて操舵不能になった場合の操縦法を研究していた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- NTSB Report AAR-90/06 (pdf)
- 不時着時の映像 - Google Video
- 世界の航空機事故総覧
- 事故機のボイスレコーダ音声
- 事故機の写真
- 事故の詳細(英文)
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