リチャード・アーミテージ
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リチャード・リー・アーミテージ (Richard Lee Armitage, 1945年4月26日 - ) は、アメリカ合衆国の政治家・軍人。マサチューセッツ州ボストン生まれ。
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[編集] 人物と経歴
1967年アナポリス海軍兵学校を卒業後、ベトナム戦争に従軍。1973年に退役後は、国防総省情報局員としてサイゴンやテヘランなどで勤務。上院議員であったボブ・ドール(のちに大統領候補になる)の秘書などを経て、1981年からはロナルド・レーガン政権の国防次官補代理、1983年から1989年までは国防次官補を務めた。2001年に発足した現ブッシュ政権下では2004年11月まで国務副長官を務めた。
2003年7月に、インタビューでCIA工作員の身元を漏洩してしまう(プレイム・ゲート事件)。このことに関しては2006年9月のインタビューで「大統領、国務長官と国務省、家族に申し訳ないことをした」と述べており、自分に非があるということを認めている。
国防戦略の専門家、共和党穏健派の重鎮として知られ、コリン・パウエル国務長官(当時)とともに国務省内で絶大な信頼を置かれていた。現在はシンクタンクである「アーミテージ財団」の代表を務めている。
2006年9月21日放送のCBS『60 Minitues』においてパキスタンのムシャラフ大統領は、対テロ戦争に協力しなければパキスタンを「石器時代に戻す」ほど空爆するとアーミテージから脅迫されたと告白した。アーミテージ自身も「そのような表現は使っていないが、かなり強い言葉で要請したのは事実」とこれを認めている。
但しイラク戦争については、アメリカ政府の中において最も反対の立場をとった人物である。この点、パウエル前国務長官と同様であり、戦争の実体を知らない保守派の文民の方がむしろ好戦的であるということを示すエピソードである。
ベトナム語が堪能。
[編集] 政権きっての知日派
レーガン政権の国防次官補代理職にあった時に、東アジアおよび太平洋地域を担当していたこともあり、“知日派”として知られる。日米間の安定的な安全保障システムの確立に貢献してきたほか、石原慎太郎など日本の政治家や官僚らとの繋がりも強い。一方で、核武装など大幅な日本の軍事的拡大には否定的とされる。かつて、日米間で摩擦があったFSX開発問題では日本側との調整を担当している。
日本や東アジア全般の安全保障に関する発言が常に注目を集める。アーミテージの名が一般に広く知られるようになったきっかけとして、2000年に対日外交の指針としてジョセフ・ナイらと共同で作成した論文「アーミテージ・レポート」(正式名称:INSS Special Report)の存在が挙げられる。この報告書においては日本に対し、有事法制の整備を要求する文言が盛り込まれた。これを契機に日本の政府与党は有事法制の整備に向けた検討を開始していく。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件には対応に追われる大統領や国務長官らに代わり、米国側における日本との連絡窓口として奔走。この時に所謂「ショウ・ザ・フラッグ」(旗幟を明らかにしろ、日本の存在感を示せ)発言を行い、対テロリズムにおける自衛隊出動も視野に入れた積極的な支援・共闘を求めたといわれる。 イラク戦争開戦時には日本の役割を野球にたとえて「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(陸上自衛隊の派遣を求めたと思われる)と発言したことでも有名になった。また、2004年7月には日本国憲法第9条を日米同盟の障害とする主旨の発言をして物議をかもした。
2005年6月6日、『筑紫哲也 NEWS23』に出演した際に、靖国神社のことを聞かれ「主権国家である日本の総理大臣が、中国に限らず他の国から靖国神社に参拝してはいけないと指図されるようなことがあれば、逆に参拝すべきだと思います。なぜなら内政干渉を許してはいけないからです。もう一つは、全ての国が戦死者をまつりますが、それぞれのやり方で良いのだと思います」と主張した。
[編集] ベトナム戦争での行動
海軍兵学校卒業後は、ベトナム戦争に自ら志願し、危険な作戦に従事する。1973年1月にパリで和平協定が成立すると、戦いを途中でやめるのは嫌だと海軍をやめてしまう。但しサイゴンにある米軍駐在武官本部の民間人顧問としてベトナムに留まり、特殊任務についた。海軍特殊部隊(SEALS)の隊員だったという噂も流れたが米国国務省のウェブサイトで否定している。
いったんワシントンに戻ったが、1975年4月に北ベトナム軍がサイゴンにせまると、国防省から特定南ベトナム人の救出作戦の実行を頼まれる。ビエンホア空軍基地にヘリコプターで乗り込み、機密保持のため基地内の機器を破壊。 そして取り残された南ベトナム空軍の将兵30名と一緒に放火の中から脱出。その後南ベトナム海軍艦艇と将兵及びその家族を率いて、8日かけてフィリピンまで脱出した。(本人談)
[編集] その他
- 風貌が『アダムス・ファミリー』の登場人物に似ている。
- 家族はローラ夫人との間に3男1女。他にアフリカ系移民などの子供たちを養子として育てている。
- 学生時代からの趣味はアメフトとウエイトリフティング。
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