ロシア社会民主労働党
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ロシア社会民主労働党 Российская социал-демократическая рабочая партия (ろしあしゃかいみんしゅろうどうしゃとう、1898年~1912年) ロシアで最初にマルクス主義を政綱に採用した革命党。後に急進的で地下活動を主体とするボルシェヴィキとヨーロッパ流の議会政治や自由主義との提携を容認するメンシェヴィキに分裂した。
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[編集] 前史
農民層に革命の可能性を賭けていたナロードニキや政府高官への個人テロを手段とした「人民の意志」党の運動が行き詰まった1880年代に、ゲオルギー・プレハーノフを指導者として「労働解放」団が創立された。「労働解放」団はマルクスとエンゲルスの著作をロシア語で出版することやナロードニキの政治論を批判する作業に取りかかり、革命党は意識ある組織された工場労働者に根拠をもつべきであると主張。晩年のエンゲルスによる控えめな同意を得ることに成功した。ブルガリア社会主義者のブラゴーエフなどによってペテルブルクに創設された「ロシア人社会民主主義者党」は、プレハーノフとも連絡をつけて『労働者(ラボーチー)』紙を刊行した。
1890年代の飢饉やストライキを背景としてマルクス主義者の見解はロシア知識人に広まり、国外での著作・パンフレットが持ちこまれて回覧され、ペテルブルクでは新聞や月刊誌の発行が相次いだ。1895年にはペテルブルクで2つの社会民主主義グループが同じような内容のビラを発行する。ラトチェンコやウラジーミル・ウリヤーノフを指導者とする「老人組」とチェルヌィーシェフを指導者とした「若者組」である。社会民主主義に傾いていた「人民の意志団」と接触した「老人組」は、1895年12月末に新しい組織「労働者階級解放同盟」を旗揚げした。モスクワでは「労働者同盟」が似た活動を展開しており、キエフでは「労働者の大義(ラボーチェエ・ジェーロ)」と称する団体が1896年に『前進(フペリョート)』という非合法の新聞を発行して労働者に煽動活動を行っていた。1897年リトヴァのユダヤ人労働者の間で活動していた社会民主主義組織が「在リトヴァ・ポーランド全ユダヤ人労働者同盟(ブント)」に統合。ロシアの各都市では社会民主主義の政治方針をもつ団体が次々と成立し、いまや、これらの活動家たちを一つの党に結集することが日程に上った。
[編集] 党の創設
1897年3月に党創立大会として招集されたキエフ協議会が失敗してから、ブント中央委員会の参加を得て、1898年3月1~3日にミンスクで秘密裏に社会民主主義者の大会が開かれた。参加したのはブントから3名、非合法新聞『労働者新聞(ラボーチャヤ・ガゼータ)』を出していた南部グループから2名、ペテルブルク・モスクワ・キエフ・エカテリノスラフから各1名の計9名の代表たちである。大会ではこれらの諸都市の「闘争同盟」はロシア社会民主主義労働党に統合することになり、各組織はその委員会と称することになった。『労働新聞』は党機関紙となる。ブントのクレメール、ペテルブルクのラトチェンコ、南部グループのエイジェリマンが中央委員会に選出され「党宣言」の発行が委任され、ピョートル・ストルーヴェがその作業を担当した。その党宣言は
- 「共産党宣言」に確言されたブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命という2つの段階
- ロシアのブルジョアジーはそれ自身の革命を遂行する能力がなく、国家行政への参加、言論・出版・結社・集会の自由という課題は、ロシア・プロレタリアートが実現しなければならないこと
を指摘していた。このミンスク大会のあとで主要な活動家が大量に逮捕されてしまったため、党の再建は1900年の党機関紙『イスクラ Iskra』と1901年の理論的雑誌『ザリャー Zarya』の発刊を待たねばならない。これらの週刊誌と雑誌の編集には、「労働解放団」を代表するプレハーノフ、アクセルロード、ヴェラ・ザスーリッチと、シベリア流刑から戻ったばかりのウリヤーノフ、ユーリー・マルトフ、ポトレソフが名を連ねた。ウリヤーノフ(レーニンというペンネームを使い始める)が中心となった『イスクラ』では党綱領の宣伝を要求し、さらに1898年に始められ放棄された仕事に着手するために党大会を招集することも要求した。1902年の中頃までに『イスクラ』は、党綱領草案を提示することができたが、その内容はプレハーノフの穏和な見解とより非妥協的なレーニンの見解との妥協の産物であった。1903年の初めには、その年の7月にブリュッセルで開かれる党大会への準備が進められている。
[編集] 党外でのイデオロギー闘争
ロシアの社会民主主義者たちは、当時3つの主要な反対者をもっていた。
- 1860年代から活動を始めたナロードニキは、マルクスの教訓をロシアに適用した際に、「優れて農民の国であるロシアはブルジョア資本主義というヨーロッパ的な段階を回避することができる」と解釈した。このことは「ロシアは革命後すぐにでも社会主義の段階に移ることができる」という主張にもつながり、直接行動を欲していたバクーニン追随者の無政府主義やテロリズムを容認する傾向をもつ。
- 1890年代に検閲を通過する形でマルクスの教説をロシアに小計した「合法マルクス主義者」たちは、ナロードニキとはまったく逆に「ロシアは社会主義を実現するためには、非現実的な権力奪取を試みることなく、資本主義の学校で勉強する必要がある」と主張した。ロシアはヨーロッパの歩んだ道をそのまま辿らなければならないという意味で、彼らはかつての「西欧派」の流れをくみ、後の「修正主義者」に先鞭をつけた。彼らの中で主立った者は、ピョートル・ストルーヴェ、ブルガーコフ、ベルジャーエフ、トゥガン・バラノフスキーなどの経済学者や理論家である。
- 1890年代から1900年代にかけて、労働運動に強い影響力を持っていたのは「経済主義者」たちである。彼らの明白な教義は「政治から経済を鋭く分離する」ことであった。経済は労働者の仕事であり、政治は党の知識人指導者の仕事であった。労働者は経済的目標にのみ関心を持つべきであり、階級闘争とは労働条件の改善に留まるべきである。1899年にE・クスコーヴァによる『信条Credo』という文書には「独立の労働者政党は、外国の課題をロシアの国土に移植した産物である」とされ、その「革命は労働者の仕事ではない」という趣旨に対して、すでに発表当初からミンスク大会からの後退であると非難の声が上がっていた。
これらの反対者たちとの論争は『イスクラ』に持ちこまれ、ナロードニキに対してはプレハーノフが、合法マルクス主義者と経済主義者たちに対してはレーニンの著書『なにをなすべきか』が攻撃を加え、来るべき革命で主体的な役割を演じるのは農民・自由主義知識人ではなく、プロレタリアートであるという合意が、「イスクラ」派を中心とする社会民主主義者たちにできあがったかに見えた。
[編集] 第2回党大会での分裂
1903年7月にはブリュッセル、8月にはロンドンでロシア社会民主主義労働党第2回大会が開かれた。これは実質的な創立大会であり、それはまた1912年になって形式上も完全な分離にいたるボルシェヴィキとメンシェヴィキの対立が始まった場でもある。大会は全部で51の投票権を自由にできる43名の議決代議員で成り立っていた。他に評議権をもつが議決権をもたない、いろいろな団体からの14名の代議員がいた。大会は完全に「イスクラ」派によって支配されていた。民族少数派の権利と党の中での自治権を主張した「ブント」と「経済主義者」たちは党大会から脱退し、『イスクラ』を党の中央機関紙として承認する決定は通過した。
党綱領では「プロレタリアートによる政治権力の獲得」「プロレタリアート独裁」が初めて書きこまれた。最後に「専制政治の転覆と全人民に自由に選ばれた憲法制定会議の招集」を要求しているこの党綱領は1919年まで変わらなかった。
党規約の審議は、党構成員の資格を確定する第1条で、草案準備委員のレーニンとマルトフがそれぞれ相容れない原案を提出し、『イスクラ』編集局の他のメンバーはこの紛糾を最後まで収拾できなかった。レーニン案の意図する「組織され訓練された職業的な革命家たちによる小さな党」という規定は、大会では反対28賛成23で否決された。他の党規約は、そのまま承認される。
党中央組織は、党教義の監視役としての中央機関紙と、地方組織を通して党活動を指導する中央委員会と、この両団体から2名ずつの代表・党大会で指名された議長とで構成される5名の党評議会から成り立っていた。評議会は次の大会にのみ責任を負う最高統制機関である。
その後の「ブント」と「経済主義者」の脱退は、大会の代議員の構成をレーニンの代表する強硬派にとって有利に変化させた。「多数派」となったレーニンは『イスクラ』編集委員と党中央委員会の構成員を削減・制限しようとし、マルトフはこのような「党内部の戒厳令」を非難した。レーニンの提案が通った結果、党評議会はレーニンの指導する強硬派が握ることになり、彼らは「ボルシェヴィキ」すなわち多数派、反対者たちは「メンシェヴィキ」すなわち少数派と呼ばれるようになった。その後党大会の承認した議長となったプレハーノフはレーニンへの支持を取り消し、ドイツ社会民主党はメンシェヴィキへの一般的支持を表明した。
[編集] 残響
第2回党大会では党綱領について一致し党規約について分裂しただけであるから、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの分裂は党の教義には関わりなく、一時的な問題であるという印象を党内外に残した。
しかし、1905年の第一次ロシア革命に対して、ロシア社会民主労働党は弱化された状態で立ち向かうことになり、事態に効果的に対処することができなかった。革命の熱気を背景として統一の動きが双方から起こり、ペテルブルク・ソヴィエトの支持のもとに共同の新聞『北方の声 Severnyi Golos』を3号発行するところまで和睦した。その年の夏にボルシェヴィキはロンドンでボルシェヴィキだけの大会を開き、これは第三回党大会として史上に知られる。
1905年12月フィンランドのタンメルフォルスで開かれたボルシェヴィキ協議会は、メンシェヴィキとの融合を決議し、1906年4月のストックホルム「統一」党大会ではメンシェヴィキが多数派になり、1907年4~5月ロンドンでの第五回党大会ではボルシェヴィキが多数派となる。1908年12月パリで開かれた党協議会でも形だけの統一は保たれていた。1909年に数号発行された新しい党新聞『社会民主主義者』にはレーニン、マルトフが編集部に名を連ね、1910年1月にパリで開かれた党中央委員会では、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの妥協に基づく、党の統一を再確認した。ロシア革命の性格(民主主義か社会主義か)ということに深く関わっていたこの分裂は深まるばかりだった。そのため1903年から「党外の調停者」として独立したトロツキーの和解への努力は実を結ばず、トロツキーは党規律をメンシェヴィキとの合同より重く見るレーニンと1914年まで続く激しい論戦を行うことになる。
1912年1月レーニンによってプラハに招集された14名の協議会で、「民主的共和国、8時間労働、地主の全土地の没収」を提唱し、自らを「全党協議会」「党の最高機関」と宣言したのであった。1907年のロンドン大会で指名された中央委員会は自然消滅しており、プラハ協議会は党大会の機能を僭取したことになる。ロシア社会民主労働党からメンシェヴィキその他の「解党主義者」を除外して新しく造り直そうというこの立場から、ボルシェヴィキは分派ではなく一つの党となり、再び後退することはない。ボルシェヴィキ以外の党組織の大半は、合法舞台で活動する分子とともに1912年8月にウィーンに集まり、「8月ブロック」を形成した。このブロックの主唱者であるトロツキーとレーニンとの関係はさらに悪化したのであった。
[編集] 参考
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