ロベルト・イル・グイスカルド
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ロベルト・イル・グイスカルド・ダルタヴィッラ(伊語:Roberto il Guiscardo d'Altavilla、仏語:Robert Guiscard d'Hauteville, 1015年 - 1085年7月17日)は、ノルマン・ヴァイキングの出で中世南イタリアを征服した。兄ハンフリヌスの死後、プッリャ・カラブリア伯(1057年-1079年)のちにプッリャ・カラブリア公(1059年-1085年)。フランス語読みで、ロベール・ギスカール(Robert Guiscard)とも表記する。ノルマン人のオートヴィルのタンクレッドの六男で、後にオートヴィル一族の首領。
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[編集] 名前
公の出身地ノルマンディが現フランスであることから、フランス語読みのロベール・ギスカールと記されることが多い。または当時の共通語であるラテン語でロベルトゥス・グイスカルドゥスとなる。イル・グイスカルドとは「狡猾な人」という呼び名で、家名はアルタヴィッラ(仏語ではオートヴィル。後にシチリア王国を開基したルッジェーロ2世の家系はオートヴィル朝と呼ばれた)である。
[編集] 生涯
[編集] 南イタリア攻略
ノルマンディー出身のオートヴィル一族は当初傭兵などをやっていたが、やがて南イタリアのアラブ領や東ローマ帝国領を攻略するようになり、ロベルトの兄たちは、1042年にイタリアのプッリャ伯になった。ロベルトは、1047年にノルマンディーを出てイタリアのロンバルディアに向かった。その時は、5人の騎士と30人の従者を連れただけで、しばらく山賊のようなことをやっていたが、やがて1057年、兄の後を継いでプーリア伯となり、弟のルッジェーロ達とともに、カラブリア、シチリア等の諸都市を征服していった。
ローマ教皇ニコラウス2世は、神聖ローマ皇帝との争いに備えて、これらのノルマン騎士を手懐けるため、1059年にロベルトをプッリャ、カラブリア、シチリアに正式に封じた。ただし、いまだこの地方はサラセン人やビザンティン皇帝領が点在していた。その後、1076年までに弟とともにシチリアと南イタリアの多くを征服した。たとえば、当時アラブ人に支配されていたメッシーナを攻略中に、当時拠点にしていたメルフィが1061年1月に東ローマ帝国のコンスタンティウス10世の軍に囲まれた。ロベルトは全軍を戻して再奪取に当たり、カラブリアの平定に成功した。1072年にロベルトはシチリアをルッジェーロに譲り、自身はプッリャとカラブリアを支配した。
[編集] ギリシア人との戦い
1081年に東ローマ帝国征服を目指し、東ローマ皇帝軍を破り、コルフとアルバニアを占領したが、叙任権問題のこじれにより神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世にサンタンジェロ城を包囲されたローマ教皇グレゴリウス7世の救出に呼び戻された。ロベルトの接近によりハインリヒ4世は撤退したが、後を追い、1084年5月にローマに入城し略奪を行った。この間に、ギリシアを占領していた息子のボエモンが占領地を失ったため、再びギリシア遠征を行ったが、1085年7月15日に熱病で亡くなった。
[編集] 家系
弟にシチリア伯ルッジェーロ、孫にアンティオキア摂政タンクレッドがいる。
結婚は2回で、息子は4人いる。次男ルッジェーロがプッリア・カラブリア公を継いだ。長男がアンティオキア公ボエモン、ほかにアマルフィ公グイド、ロベルト・スカリオがいる。