ロベルト・ロッセリーニ
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ロベルト・ロッセリーニ(Roberto Rossellini 1906年3月8日-1977年6月3日)は、イタリアの映画監督。ローマ生まれ。
イタリア映画界でのネオレアリズモ運動の先駆的な人物の一人である。代表作は『無防備都市 』『戦火のかなた 』『ドイツ零年 』『ストロンボリ、神の土地 』『神の道化師、フランチェスコ 』『ヨーロッパ1951年』『イタリア旅行 』などがある。
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[編集] 青春時代
ローマの大手建築業者の父親アンジェロ・ジュゼッペ・ロッセリーニと母親エレットラ・ベランとの間の長男である。後に作曲家になった弟のレンツォ(1908年生まれ)、妹のマルチェルラ(1909年生まれ)とミカエラ(1922年生まれ)の4人兄弟の長男だった。
ロッセリーニ家の先祖はトスカーナ地方のブルジョワでゼッフィーロという姓であった。イタリア王国の首都がローマになったとき(1871年)、ローマに出てきた。彼はイタリア統一の英雄ガリバルディ将軍とその息子たちの後援者として知られていた。そしてゼッフィーロ家にはガリバルディの遺品、手紙や献辞入りの写真、将軍のひげの房さえ保管されていた。
ゼッフィーロ氏は、ゼロから始めて財産を築いた人物だった。しかし、不幸なことに子供に恵まれなかった。そこで彼は、弟ルイジの息子で甥にあたるアンジェロ・ジュゼッペを溺愛した。このアンジェロ・ジュゼッペが、ロベルトの父親である。
アンジェロ・ジュゼッペには芸術的な才能があったようだ。音楽愛好家で根っからのワグネリアンである彼は、テノール歌手として舞台に立ったこともあるという。また、後には著作に打ち込み、"Sie vos non vobis"というタイトルの小説を残している。
ゼッフィーロ氏の事業は、このアンジェロ・ジュゼッペ・ロッセリーニに引き継がれた。そしてアンジェロ・ジュゼッペは、事業家としても才覚を発揮、ローマ有数の建築業者になった。彼が手がけた仕事にはローマの商業銀行の本店、ローマで最も美しい映画館の一つと言われるチネマ・バルベリーニ、最初の開閉式の丸屋根のついたコルソ・チネマ(現在のエトワール館)の建設、そしてバルベリーニ宮のファザードの修復などがある。
一方、ロベルトの母親、エレットラ・ベランはヴェネツィアの出身で遠い祖先はフランスの出であった。
ロベルトは、こうした上流ブルジョワの家庭で何不自由なく育った。ロベルトたち兄弟には当時の慣例でフランス人の養育係がつき自然とフランス語も覚えた。また、ロッセリーニ家に、様々な芸術家が出入りしていた。詩人や作家、言語学者、建築家、音楽家(この中には有名なマスカーニがいた)、歌手、指揮者など。
ロベールは空想力の豊かな少年だったようである。父親のアンジェロ・ジュゼッペは家の近くのコルソ通りとバルベリーニ通りの映画館のフリーパスを子供たちに与え、ロベルトは、サイレント時代の人気スター、パール・ホワイトの連続物に夢中になった。また、サイレント時代の超大作史劇『カビリア』(1914)を見て弟や妹、それに従兄弟のレンツォ・アヴァンツォ(彼は後に『戦火のかなた』に出演することになる)たちと『カビリア』ごっこをして遊んだ。しかし、子供時代のロベルトが一番熱中したのは機械いじりだった。彼は邸宅の一室を実験室にして機械を組み立てたり、いろいろな実験をした。
ロベルトは第一次世界大戦中に猛威を振るったスペイン風邪のため、冬の間中、ベッドで過ごした。そのため後期中学では弟のレンツォと同じクラスに編入した。次いでノービレ・コッレッジョ・ナザレーノで勉強を続けた。『無防備都市』の出演者、マルチェロ・パリエーロは、この時の学友である。
ロベルトは読書家であった。ピエール・ロティ、ジュール・ベルヌ、レマルクの小説。そしてダンテの神曲(特に地獄篇)が彼の愛読書だった。また、彼はスピードに魅せられ、驚いたことに早くも9歳で車を運転した。当時は、車の運転に年齢制限がなかったのだ。
ロベルトの兵役は免除となった。非常に虚弱だった上に肋膜炎を患っていたからである。1932年、ロベルトの父アンジェロ・ジュゼッペが死去した。当時、ロッセリーニ家の財政状態は不安定になった。1929年の経済恐慌の打撃を受けたのである。そのためロッセリーニ家は多くの地所を売却せざるを得なかった。しかし、ロベルトは、これまでと同じような生活をしていた。
1936年、ロベルトは、ローマの宝石商の娘マルチェッラ・デ・マルキスと結婚。彼女との間に2人の男の子ができる。結婚前にロベルトには人気スターのアッシャ・ノリスというという恋人がいた。この頃、彼は彼女を通じて映画界に興味を抱くようになり、スカレラ・フィルムのスタジオに通った。そして、脚本家としての仕事が始まる。ただし、脚本に彼の名前はクレジットされず、脚本料は1本3000リラしかならなかった。後に脚本家としてロッセリーニの名が正式に出されるのは、ゴッドフレード・アレッサンドリーニ監督の『空征かば』(1938)からである。
1936年に2本のアマチュア短編映画『ダフネ』と『牧神の午後への前奏曲』を撮る。後者はドビュッシーに心酔していた弟のレンツォのアイディアに基づいたもので、タイツをはいて裸のように見せかけた男と女が田舎を彷徨うというものだった。1939年には『海底の幻想』『横柄な七面鳥』『元気なテレーザ』の3本の短編を発表。『海底の幻想』は冷凍食品会社のジュネペスカから委託された魚の短編ドキュメンタリー。また、『横柄な七面鳥』と『元気なテレーザ』の2本の短編のキャメラマンは、後に『血ぬられた墓標』(1960)や『白い肌に狂う鞭』(1963)などのホラー映画で知られるマリオ・バーヴァである。
ロッセリーニが脚本を書き、助監督としても参加した『空征かば』はムッソリーニの息子ヴィットリオ・ムッソリーニが監修をした。彼は後にネオレアリズモの母体となる映画批評誌「チネマ」の編集部を訪れることもあったが。映画批評には興味がなかったようである。
1941年、海軍省の映画センターの責任者で海軍司令官のフランチェスコ・デ・ロベルティスは、ロッセリーニに病院船の活動を描いたドキュメンタリーを委託した。こうして生まれたのが、ロッセリーニの長編第1作『白い船』(1941)である。『白い船』は、ヴェネツィア国際映画祭に出品され、ファシスト党杯を授与され、大成功をおさめた。続く第2作は、ギリシャ戦線でのイタリア空軍パイロットの活躍を描いた『パイロット帰還ス』(1942)。この作品では「チネマ」の同人、ミケランジェロ・アントニオーニとマッシモ・ミーダ(後に彼は『戦火のかなた』の助監督になる)が脚本に参加し、ヴィスコンティのネオリアリズモ映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のマッシモ・ジロッティが主役のパイロットを演じた。『パイロット帰還ス』は1942年4月、ファシスト指導者、閣僚、次官たちが出席してローマのスペルチネマで盛大なプレミア上映会が行われ、好評を博した。
1942年6月、チネチッタ撮影所で『十字架の男』(1943)がクランク・イン。この作品は、ロシア戦線で英雄的な死を遂げた従軍司祭、レジナルド・ジュリアーニの姿を描いたものである。主役のアルヴェルト・タヴァッツィはプロの俳優でなく装置家で、ロシア娘の役のロスヴィタ・シュミットはドイツの女優で当時、ロッセリーニの愛人であった。
[編集] 6つの作家活動期
ロベルト・ロッセリーニは、30年以上に及ぶ監督生活で30本以上の長編映画を撮った。そうした彼の作家活動を辿ってみると、何度かの転換期があったことに気づく。その転換期を1つの節目とすると、ロッセリーニの作家活動は6つの時期に分けることができる。
第1の時期は処女作『白い船』から『十字架の男』までの戦争プロパガンダ映画の時期。『白い船』では海軍の病院船、『パイロット帰還ス』では空軍パイロット、そして『十字架の男』では陸軍の従軍司祭というように、イタリアの陸・海・空軍の活躍を描いたこの3本はもう一つの「戦争三部作」でもある。この3作でロッセリーニは監督として早くも注目されるようになった。
第2の時期は『無防備都市』(1945)から『殺人カメラ』(1948)までのネオレアリズモ映画の時期。この時期は、ロッセリーニの作家活動で最も充実した時期でもある。この後の『ストロンボリ、神の土地』、『神の道化師、フランチェスコ』(1950)は、便宜上、バーグマンの時代に分類するが、どちらかというと、ネオレアリズモの時期の延長線上にある作品と言える。
第3の時期は、イングリッド・バーグマンが主役を演じた『ストロンボリ、神の土地』(1950)から『不安』(1954)までのバーグマンの時代。この時期ロッセリーニは、これまでの戦争をテーマとした作品やカトリシズムへの傾倒が明白な作品から一転して結婚生活の危機、夫婦間の断絶といったテーマに目を向けている。この時期の作品は、公開当時、イタリアで全く理解されないばかりか興行的にも失敗し、ロッセリーニは、もはや映画を撮れないほど追いつめられる。だが、例えば『ヨーロッパ1951年』(1952)、『イタリア旅行』(1953)といった作品は、今ではロッセリーニの最良の作品として高く評価されている。
第4の時期は『インディア』(1958)からオムニバス映画『ロゴパグ』(1962)までの時期。これまで、ほぼ1年1作のペースを守ってきたロッセリーニは、バーグマンと組んだ最後の作品『不安』の後4年間の沈黙を余儀なくされる。その意味で4年ぶりの『インディア』(1958)が好意的に迎え入れられ、『ロベレ将軍』(1959)、『ローマで夜だった』(1960)が国際的に高く評価された。この時期はロッセリーニの復活の時期でもある。そして「戦争3部作」にも通じる2本の戦争ものの後、ロッセリーニは、19世紀イタリアのリソルジメント時代を背景としたコスチューム映画『イタリア万歳』(1960)『ヴァニーナ・ヴァニーニ』(1961)で歴史映画に興味を向ける。
ロッセリーニ、ゴタール、パソリーニ、グレゴレッティの頭文字からとった『ロゴパク』というオムニバス映画の後、ロッセリーニは、完全に劇映画の世界から離れる。そして、ロッセリーニ原案・脚本・監督の『鉄の時代』(1964)から『デカルト』(1973)までの10年間、ロッセリーニは専らテレビ用の歴史映画に情熱を傾ける。5番目の時期が、このテレビ用の歴史映画の時期である。従来、この時期のロッセリーニは、映画の第一線から離脱として過小評価されてきたようだ。だが『不安』の後、ロッセリーニの助手をつとめたことのあるフランソワ・トリュフォーは、10年も前に、この時期のロッセリーニを予見している。
「(ロッセリーニは)いわゆる読書のために書物のページを開くことは決してしないが、いつも資料調べや考証に余念がない。歴史や社会学の本や、科学書などを幾夜も夜を徹して読みふける。知識欲が旺盛で、知ることの歓びに生き、もう劇映画を作ることなんかやめて、いよいよ、ますます<教育映画>や<文化映画>に挺身することを熱望しているのである。(トリュフォー『わが人生わが映画』山田宏一・蓮見重彦訳)
とすれば、テレビ用の歴史映画は当然の帰結であり、ロッセリーニの本質に根ざしたものですらあるのだ。
1974年、ロッセリーニは再度、劇映画に復帰する。戦後キリスト教民主党の党首として1945年から1953年までの長期にわたってイタリアの首相を務めた政治家アルチーデ・デ・ガスペリについての映画である。ロッセリーニの復帰作『元年』はその戦後初の内閣を組閣したデ・ガスペリのナチス占領下の1944年から1954年の死までを描く。次いで翌年には聖書を題材としたキリスト映画『救世主』を撮る。テレビ用の歴史映画から劇映画への10年ぶりの復帰をロッセリーニの新たな時期の始まりとすればこの2本の作品は、6番目の時期の作品とすることができるかも知れない。しかし、この最後の時期はロッセリーニの死によってピリオドが打たれる。
『救世主』のあと、ロッセリーニは『人間性のために生きる』と題されたカール・マルクスの思想と人生についての映画を準備していた。この他にも毛沢東やマルコ・ポーロ、百科全書派についての映画、あるいは『銀の道』と題された企画が、ロッセリーニの脳裏にあった。明らかにこれらはテレビ用歴史映画の延長上の企画であり。ここには、かつてのネオレアリズモの巨匠とは別の道を歩むロッセリーニの姿が見られる。
[編集] ヌーヴェル・ヴァーグの父として
ロッセリーニ作品の多くは、公開当時、イタリアでは正当な評価が得られなかった。後にネオレアリズモ映画の金字塔として崇められている『無防備都市』ですら初めはイタリアでは無視され、アメリカやフランスで熱狂的に迎えられてから、ようやくイタリアでも評価されだしたのだ。そうした意味では『無防備都市』や『イタリア旅行』はまさに「カルト映画中のカルト」だと言えよう。
『無防備都市』と『戦火のかなた』はアメリカで大成功を収めた。(『戦火のかなた』はメジャーのMGMが配給)。だが、次の『ドイツ零年』を伝説的なプロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンに見せるが、試写が終わった後、「居心地の悪い沈黙ができた」だけだった。その後、バーグマン初のロッセリーニ映画『ストロンボリ、神の土地』は、当時、ハワード・ヒューズが買収したRKOの資金援助で製作された。だが、1950年2月5日、全米300館で公開された『ストロンボリ、神の土地』は興行的に大失敗となった。こうして、ロッセリーニの後ろでハリウッドの扉は閉ざされた。
ロッセリーニを評価したのは、イタリアの批評家でなく、後にヌーヴェル・ヴァーグの作家となる「カイエ・デュ・シネマ」の創刊者アンドレ・パザンの「ロッセリーニの擁護」という文章によると、イタリアの批評家たちは、ネオレアリズモの退化は、すでに『ドイツ零年』に現れ、『ストロンボリ』と『神の道化師、フランチェスコ』から決定的になり、『ヨーロッパ1951年』と『イタリア旅行』で破局に達したと見なしたようだ。しかし、フランスではバザンを始めとするトリュフォーら若い批評家たちは、『ストロンボリ』や『神の道化師、フランチェスコ』『イタリア旅行』といった「呪われた映画」を断固支持した。そして、ロッセリーニは「フランスのヌーヴェル・ヴァーグの父」と呼ばれた。一つの例としてジャン=リュック・ゴダールは『イタリア旅行』を見て、1台の車と、男と女がいれば映画が出来ることということを学び、『勝手にしやがれ』(1960)を撮ったと証言している。また、トリュフォーは、子供の世界を描いた『大人は判ってくれない』は『ドイツ零年』に負うところが大きいと、明言している。
ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちのロッセリーニ擁護は、ヌーヴェル・ヴァーグに夢中になった若き日のベルナルド・ベルトルッチの作品にも投影されている。ベルトリッチの初期の自伝的な作品『革命前夜』(1964)で一人の映画狂の青年が登場し、主人公に「君はロッセリーニなしに生きられるか」と問いかけるのだ。そして、この青年は『イタリア旅行』を15回も見たと言う。
イタリアでのロッセリーニの真の後継者は、たぶんエルマンノ・オルミとタヴィアーニ兄弟であろう。1977年のカンヌ国際映画祭はタヴィアーニ兄弟の『父 パードレ・パドローネ』にグランプリを与えた。その時の審査委員長はロベルト・ロッセリーニだった。そのすぐの後の6月3日、ロッセリーニは心臓発作で死去した。
[編集] その他
イングリッド・バーグマンと恋愛関係になって結婚するが、このスキャンダルは映画史でも有名だ。彼女とのあいだには双子の娘がいるが、そのうちの一人がイザベラ・ロッセリーニ。
[編集] 主な監督作品
邦題名の*は日本未公開で直訳を示す。
- 白い船*-La nava bianca (1941)
- パイロット帰還ス*-Un pilota ritorna (1942)
- 十字架の男*-L'uomo dalla crose (1942)
- 欲望*-Desiderio (1943)
- 無防備都市 -Roma, città aperta (1945)
- 戦火のかなた -Paisà (1946)
- アモーレ -L'amore (1948)
- 殺人カメラ -La macchina ammazzacattivi (1948)
- ドイツ零年 -Germania anno zero (1948)
- ストロンボリ、神の土地 -Stromboli, terra di Dio (1950)
- 神の道化師、フランチェスコ -Francesco, giullare di Dio (1950)
- ねたみ(オムニバス映画『七つの大罪』第5話)-L'invidia (1952)
- ヨーロッパ1951年 -Europa '51 (1952)
- 自由はどこに?* -Dov'è la libertà...? (1952)
- われら女性 -Siamo donne (1952)
- イタリア旅行 -Viaggio in Italia (1953)
- ナポリ 1943(オムニバス映画『半世紀の愛』) -Napoli 1943 (1953)
- 不安 -La paura (1954)
- 火刑台のジャンヌ・ダルク* -Giovanna d'Arco al rogo (1954)
- インディア -India (1958)
- ロベレ将軍 -General della Rovere (1959)
- ローマで夜だった -Era notte a Roma (1960)
- イタリア万歳* -Viva l'Italia (1960)
- ヴァニーナ・ヴァニーニ* -Vanina Vanini (1960)
- 黒い魂* -Anima nera (1962)
- 純潔(オムニバス映画『ロゴパグ』) -Ilibatezza (1962)
- ルイ14世の権力奪取* -La prise de pouvoir par Louis XIV (1966)
- 使徒行伝* -Atti degli apostoli (1968)
- ソクラテス* - Socrate (1970)
- ブレーズ・パスカル* -Blaise Pascal (1971)
- ピッポのアウグスティヌス* -Agostino d'Ippona (1972)
- コジモの時代* -L'età di Cosimo de Medici (1972)
- デカルト* -Cartesius (1973)
- 元年* -Anno uno (1974)
- メサイア* -Il messia (1975)