ワーキングメモリ
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ワーキングメモリ(Working Memory)とは認知心理学において、情報を一時的に保ちながら操作するための構造や過程に関する理論的な枠組みである。作業記憶、作動記憶とも呼ぶ。ワーキングメモリの理論的構造や脳のどの部分が関与しているかという研究が多数行われている。一般には、前頭皮質、頭頂皮質、前帯状皮質、および大脳基底核の一部がワーキングメモリ機能に関与すると考えられている。
ワーキングメモリの研究は主に動物を使った切除実験とヒトにおけるイメージング実験の成果に基づいている。ワーキングメモリの研究は世界中で盛んに行われている。ワーキングメモリに関する研究成果は、自閉症[1]や注意欠陥多動障害(ADHD)[2]への理解を深め、指導方法を改善に導いた[3]。また、人工知能研究にも応用されている[4][5]。
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[編集] 歴史
この用語が最初に使われたのは1960年代の精神をコンピュータにたとえた理論の中であった。それ以前には、ワーキングメモリは短期記憶、operant memory、provisional memory などと呼ばれていた[6]。今日、研究者のほとんどはワーキングメモリの概念をそれらの代替とするか、短期記憶の概念がワーキングメモリに包含されると考えており、受動的な記憶保持よりも能動的な情報操作を強調している。
[編集] ワーキングメモリの容量
ワーキングメモリは、一般に容量が制限されていると考えられている。短期記憶に関する容量限界の定量化としては、Miller (1956年)による「マジックナンバー7±2」がある[7]。それによれば、記憶すべき要素が何であれ(数字、文字、単語、その他)、若者が記憶できる量は「チャンク」と呼ばれる塊りで約7個であるとされた。その後の研究で、容量はチャンクの種類に依存し、数字なら約7個、文字なら約6個、単語なら約5個であることが分かってきた。また実際、長い単語よりも短い単語の方が容量を取らない。一般に単語的内容(数字、文字、単語)は声に出して読んだときにかかる時間と記憶容量に関係があり、内容の文脈的状態(その単語を知っているか)にも依存する[8]。他にも容量に影響する要因があり、人間のワーキングメモリや短期記憶のチャンク数を具体的に定量化することは難しい。にもかかわらず、Cowan (2001年)[9] によれば若者のワーキングメモリ容量は約4チャンクであるとされている(子供や老人ではもっと少ない)。
[編集] 最近のワーキングメモリ研究
ワーキングメモリがどのように働くのかについては、解剖学的にも認知科学的にも様々なモデルが提案されてきた。そのうち、以下に挙げる3つのモデルは特に広く認知されている。
[編集] Baddeley と Hitch のモデル
Alan Baddeley と Hitch は1974年にワーキングメモリのマルチコンポーネントモデルを提案した[10]。この理論では2つのスレーブシステムが短期情報の保守を行い、1つの中央制御系が情報の統合とスレーブシステムの管理を行うとされている。スレーブシステムの1つは音韻ループ(articulatory loop)と呼ばれ、音声情報を格納し、その内容を静かに明瞭に繰り返し発音し続けることで情報をリフレッシュして破壊を防ぐ。つまり、例えば7桁の電話番号を可能な限り何度も繰り返すことで記憶し続けるのである。もう1つのスレーブシステムは視空間スケッチパッド(visuo-spatial sketch pad)であり、視覚的および空間的情報を格納する。例えば、画像を構築したり操作したり、メンタルマップを表現したりする。スケッチパッドは視覚システム(形、色、質感などを扱う)と空間システム(位置を扱う)に分けられる。中央制御系は注意(attention)を妥当な情報に向けさせ、瑣末な情報や不適切な行動を抑制し、同時に複数のことをしなければならない時の認知プロセスの調整を行う。Baddeley (2000) はこのモデルに第4のコンポーネントであるエピソード的バッファ(episodic buffer)を追加した。これは、音声/視覚/空間情報を統合した表現を保持し、さらにはスレーブシステムでは扱わない情報(意味情報や音楽情報など)も統合する。エピソード的と呼ばれるのはエピソードとして関連する情報を統合すると見なされているためである。エピソード的バッファはエピソード記憶に似ているが、短期的記憶であるという点で異なる。
[編集] Cowan の理論
Cowan (2005) では、ワーキングメモリを独立したシステムではなく、長期記憶の一部と見なしている[11]。ワーキングメモリの内容は長期記憶の内容の一部であるとする。ワーキングメモリは2つのレベルで構成される。第1レベルは活性化された長期記憶の一部に対応する。長期記憶の活性化は特に制限がないとしており、このレベルの活動は同時に多数発生している。第2レベルは注意の焦点(focus of attention)と呼ばれる。この容量は限定されており、最大4つの長期記憶に注意が向けられる。Oberauer (2002) では、Cowan のモデルを拡張して、1つのチャンクにだけより大きな注意を向ける第3のレベルを導入した[12]。第3レベルの焦点は第2レベルの焦点群から選ばれる。例えば、Cowan のモデルによれば人間は同時に4つの数字に注意を向けることができる。しかし、それら4つの数字にそれぞれ同時に 2 を足すことはできないだろう。ほとんどの人間は数学的な処理を並行して行うことは出来ず、順番に1つずつ足し算するしかない。Oberauer の理論では、4つの数字から1つだけを第3レベルの焦点に選んで処理を行っていくとすることで説明できる。
[編集] Ericsson と Kintsch の理論
大人であれば、ほとんどの人が7桁の数字を正しい順番で繰り返すことができるが、一部には80桁もの数字を覚えられる人もいる。これは、数字の列をグループ化するなどの手法を訓練することで実現でき(数桁の数字を1つのチャンクで記憶する)、そのために数字を何かの文字列に置き換えてグループ化したりする。K. Anders Ericsson らが研究対象とした人はスポーツに関する記録を詳細に記憶していた。これは、いくつかのチャンクを上位のチャンクで結合し、チャンクの階層構造を構成していると考えられる。この場合、階層の上位の一部のチャンクだけをワーキングメモリに持ってくればよい。情報検索する際にはチャンクが伸張される。つまりワーキングメモリ内のチャンクは数字への検索キーの役割を果たしている。このような訓練ではワーキングメモリの容量そのものを増加させない点に注意が必要である。これは、例えば80桁の数字を記憶できる人が、数字以外の記憶では普通の人と変わらないといった例で示されている。Ericcson と Kintsch (1995) は人間が日々の活動で訓練された記憶を使っていると主張した。例えば何かを読むという作業では7個以上のチャンクが関与していると考えられる。そうでなければ小説や論文の文脈を理解できないだろう。この場合、読んだ内容のほとんどは長期記憶に保持され、それらを何らかの検索構造でリンクしている。ワーキングメモリには少しの概念しか保持できないが、それが検索キーとなって長期記憶を検索できるようになっている。Ericsson と Kintsch はこのようなプロセスを「長期ワーキングメモリ; long-term working memory」と呼んでいる。
[編集] ワーキングメモリの訓練
最近の研究によると、ワーキングメモリを訓練によって改善できることが示唆されている(Klingberg et al., 2002)。訓練後、ワーキングメモリに関連する脳の活動が前前頭皮質で増加していることが研究によって明らかとなった(前前頭皮質は多くの研究者がワーキングメモリ機能と関係していると考えている部位である)。より重要な研究として、ある期間のワーキングメモリの訓練によって認知能力が増大し、IQテストの結果が8%改善されたという報告がある[要出典]。これは、ワーキングメモリ機能が知能全般に影響しているとする以前の研究結果を裏付けるものである。
[編集] 脚注
- ^ Hill, E. L. (2004). Executive dysfunction in autism. Trends Cogn Sci, 8(1), 26-32
- ^ Levy, F., & Farrow, M. (2001). Working memory in ADHD: prefrontal/parietal connections. Curr Drug Targets, 2(4), 347-352
- ^ Postle, B. R. (2006). Working memory as an emergent property of the mind and brain. Neuroscience, 139(1), 23-38
- ^ Constantinidis, C., & Wang, X. J. (2004). A neural circuit basis for spatial working memory. Neuroscientist, 10(6), 553-565.
- ^ Vogels, T. P., Rajan, K., & Abbott, L. F. (2005). Neural network dynamics. Annu Rev Neurosci, 28, 357-376
- ^ Fuster, J. M. (1997). The Prefrontal Cortex: Anatomy, physiology, and neuropsychology of the frontal lobe (2 ed.): Lippincott, Williams & Wilkins
- ^ Miller, G. A. (1956). The magical number seven, plus or minus two: Some limits on our capacity for processing information. Psychological Review, 63, 81-97
- ^ Hulme, C., Roodenrys, S., Brown, G., & Mercer, R. (1995). The role of long-term memory mechanisms in memory span. British Journal of Psychology, 86, 527-536.
- ^ Cowan, N. (2001). The magical number 4 in short-term memory: A reconsideration of mental storage capacity. Behavioral and Brain Sciences, 24, 87-185
- ^ Baddeley, A.D., Hitch, G.J. (1974). Working Memory, In G.A. Bower (Ed.), Recent advances in learning and motivation (Vol. 8, pp. 47-90), New York: Academic Press
- ^ Working memory capacity. New York, NY: Psychology Press
- ^ Oberauer, K. (2002). Access to information in working memory: Exploring the focus of attention. Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition, 28, 411-421.
[編集] 参考文献
- Atkinson, R.C., & Shiffrin, R.M. (1968). Human memory: A proposed system and its control processes, In K.W. Spence (Ed.), ‘’The psychology of learning and motivation: Advances in research and theory (pp. 89-195), New York: Academic Press.
- Baddeley, A.D. (2000). The episodic buffer: a new component of working memory? Trends in Cognitive Sciences, 4, 417-423.
- Engle, R. W., & Kane, M. J. (2004). Executive attention, working memory capacity, and a two-factor theory of cognitive control. In B. Ross (Ed.). The psychology of learning and motivation (Vol. 44, pp. 145-199). NY: Elsevier.
- Ericsson, K. A., & Kintsch, W. (1995). Long-term working memory. Psychological Review, 102, 211-245.
- Klingberg, T., Forssberg, H., & Westerberg, H. (2002). Training of working memory in children with ADHD. Journal of Clinical & Experimental Neuropsychology, 24, 781-791.
- Lehrl, S., & Fischer, B. (1988). The basic parameters of human information processing: their role in the determination of intelligence. Personality and individual Differences., 9, 883 - 896. ([1])
- Roberts, R. D., Pallier, G., & Stankov, L. (1996). The Basic Information Processing (BIP) unit, mental speed and human cognitive abilities. Should the BIP R.I.P.? Intelligence, 23, 133-155.
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