ヴァージニア (装甲艦)
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艦歴 | |
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発注: | 1861年 |
起工: | 1862年(メリマックからの改装) |
進水: | 1862年3月8日 |
就役: | 1862年 |
退役: | |
その後: | 1862年5月11日に乗組員により自沈 |
性能諸元 | |
排水量: | 約3,200トン(資料によって異なる) |
全長: | 275 ft (84 m) |
全幅: | 38.6 ft (11.8 m) |
吃水: | 22 ft (6.7 m) |
機関: | |
最大速: | 9 ノット (17 km/h) |
兵員: | 士官、兵員320名 |
兵装: | 7インチ(178mm)ライフル砲2門 6インチ(152mm)ライフル砲2門 9インチ(229mm)ダルグレン砲6門 12ポンド曲射砲2門 |
ヴァージニア(CSS Virginia)は、アメリカ連合国海軍の装甲艦。アメリカ海軍のフリゲート、メリマック(USS Merrimack)の船体を元に改装され、南北戦争で使用された。
ヴァージニアは1862年3月のハンプトン・ローズの戦いでアメリカ海軍のモニター(USS Monitor)と、世界初の装甲艦同士の海戦を行ったことで有名である。
それまでの軍艦はほとんどが木造船であった。ハンプトン・ローズの戦いの後、軍艦の設計および海戦の性質は劇的に変化した。
目次 |
[編集] メリマックからの改装
バージニア州が1861年に合衆国から脱退し連合国側に参加したため、当時脅かされた合衆国側の重要な軍事施設の一つにゴスポート造船所(現在のノーフォーク海軍造船所)があった。同造船所は連合国の手に落ちるのを防ぐため破壊が命じられた。合衆国にとって不運なことに、その命令は達成されなかった。蒸気フリゲートのメリマック(USS Merrimack)は完全に焼却される前に沈没した。南部連合軍が造船所を管理下に置くと、彼らはメリマックを引き上げ機関を利用し、帆を取り外し鋼鉄の装甲で覆うことを決定した。
艦の再建はゴスポート造船所の司令官となったフレンチ・フォレスト大佐の指揮下に行われた。再建された艦はヴァージニア(CSS Virginia)と命名された。ヴァージニアは4インチの厚さの甲板、開き窓、10門の砲(前部1門後部1門、左右舷側に4門ずつ)を持っていた。さらにヴァージニアの設計者は合衆国軍が装甲艦を建造していたことを耳にしており、通常の砲ではそのような装甲艦に損傷を与えることができないと考え、ヴァージニアに衝角を装備した。ヴァージニアの機関は正常に動作せず、塩分の多いエリザベス川の水も助けにはならなかった。また、追加された何トンもの鉄製装甲も状況を改善しなかった。
[編集] ハンプトン・ローズの戦い
ハンプトン・ローズの戦いはヴァージニアが配属された1862年3月8日に始まった。ヴァージニアは完成に最大の努力が払われたが、出航時点でも艦内では作業員が作業を継続していた。ヴァージニアはローリー(CSS Raleigh)とビューフォート(CSS Beaufort)の支援を受け、パトリック・ヘンリー(CSS Patrick Henry)、ジェームズタウン(CSS Jamestown)、ティーザー(CSS Teaser)に伴われて航行を続け、合衆国軍の封鎖艦隊と遭遇した。
ヴァージニアが最初に遭遇したカンバーランド(USS Cumberland)は、衝角による攻撃で船体を破損し沈没した。しかしながらカンバーランドへの攻撃でヴァージニアは衝角を損傷した。コングレス(USS Congress)の艦長は艦を浅瀬に座礁させることを命じ、その後コングレスとヴァージニアは砲撃戦を行う。一時間の砲撃戦の後、コングレスは大きく損傷し降伏した。コングレスの乗組員の生き残りが艦から退却する間に、北岸の合衆国軍砲台がヴァージニアに砲撃を始める。その報復としてヴァージニアは炎上するコングレスへの砲撃を命じた。
ヴァージニアは戦闘を無傷で切り抜けることはできなかった。カンバーランド、コングレスおよび合衆国軍はヴァージニアの煙突を破壊し、すでに低速となっていたヴァージニアの速度はより一層低下した。搭載する砲2門は発射不能となり、多くの装甲板が失われていた。それでもヴァージニア艦長はミネソタ(USS Minnesota)への攻撃を命じ、ミネソタはバージニアを回避しようとして浅瀬に座礁した。ヴァージニアの吃水は深すぎたためミネソタへの攻撃を継続することはできなかった。その日遅くに翌日の再攻撃を目論みながらヴァージニアは戦場を去った。
モニター(USS Monitor)は夜遅くにフォート・モンローに到着し、合衆国の都市へのヴァージニアの脅威を防ぐことと、合衆国軍を保護するためハンプトン・ローズへ急いだ。
翌日の1862年3月9日に世界初の装甲艦同士の海戦が行われた。海戦はヴァージニアよりも小さく小回りのきくモニターが勝利した。しかしながら両艦とも多くの砲撃にもかかわらず、互いに効果的な損傷を与えることができなかった。モニターは船体の殆どが水面下にあり、ヴァージニアは効果的な命中弾を与えることができなかったものの、衝角による衝撃には弱かった。結局モニターは艦長が火薬により目を負傷したためヴァージニアの支配する「戦場」を退却することとなった。ヴァージニア艦長ケイツビー・アプ・ロジャー・ジョーンズも退却が最良と考え、合衆国軍の封鎖は継続された。モニターはヴァージニアとの再戦を望まなかった。
その後2ヶ月にわたってヴァージニアはモニターとの再戦を望むべくハンプトン・ローズへ数度の出撃を行った。しかしながらモニターはそれに応じなかった。
結局1862年5月10日に合衆国軍はノーフォークを占領し、ヴァージニアはその吃水の深さからジェームズ川を遡上することができなかった。また外洋に出るにも耐航性が十分ではなかったため、ヴァージニアは捕獲を避けるべく破壊を命じられた。ヴァージニアの最後の乗組員は搭載砲を外して移動させた。1862年5月11日の朝にヴァージニアはクラニー島の沖合で爆破された。
[編集] 艦名の混乱
「ヴァージニア」の艦名は混乱の源となった。その混乱は現代に継続する。
装甲艦は連合国海軍によりヴァージニア(CSS Virginia)として就役した。しかしながら、ヴァージニアとして就役した後も合衆国側は元の艦名であるメリマック(USS Merrimack)で呼び表した。南北戦争は合衆国の勝利で終結したため、多くの歴史書では合衆国側の名称であるメリマックで記述される。しかしながらいつの頃からかスペルの最後の文字「k」が外され「モニターとメリマックの戦い the Battle of the Monitor and the Merrimac」とのように短縮された名称で記述されるようになった。メリマック(USS Merrimack)はメリマック川(Merrimack River)に因んで命名されたが、アメリカ海軍にはメリマック(USS Merrimac)という名の艦も数隻存在し、これらのスペルの違いはいくつかの混乱を引き起こした。連合国側でさえ「Merrimac」の綴りで書き表した物もあった。
[編集] 外部リンク
- Library of Virginia official website
- Virginia Historical Society official website
- Museum of the Confederacy in Richmond, VA official website
- website devoted to the CSS Virginia
- Hampton Roads Visitor Guide
- USS Monitor Center and Exhibit Newport News, Virginia
- Mariner's Museum, Newport News, Virginia
- Hampton Roads Naval Museum
- Civil War Naval History
- Fort Wool History
- Roads to the Future - I-664 Monitor-Merrimac Memorial Bridge Tunnel
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