不破光治
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不破 光治(ふわ みつはる、生年不詳 - 天正8年(1580年)12月14日)は、戦国時代~安土桃山時代の斎藤氏・織田氏の家臣。不破直光(勝光)、不破源六の父。太郎左衛門尉・河内守。
家系には諸説あるが、不破隼人藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁 源為義の後裔 松井蔵人直家の子直重が不破隼人佐を称したのに始まるとする説がある他、山城国の南宮神社社家の一である松井直家が美濃国不破郡府中村に移住して不破氏を名乗ったとする説がある。
早くから美濃国の戦国大名斎藤氏に仕え稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の3人と共に西美濃四人衆と言われることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたとも言われているが、斎藤氏滅亡後は織田氏(織田信長・信忠)に仕え主に外交面で活躍した。
柴田勝家に従って越前一向一揆を平定後は、越前竜門寺城の城主となった。ともに周辺地域を治めた佐々成政、前田利家と共に府中三人衆と呼ばれた。天正8年12月14日、越前において死す。法名・雲樹道無大居士。子の直光が後を継いだが、しばしば父と混同される。
一説には、美濃時代の光治と近隣の竹中重治は、領地の境界を巡っての対立があり不仲だったとも言う。