前田利家
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時代 | 戦国時代、安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文7年12月25日(1539年1月15日) | |||
死没 | 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日) | |||
別名 | 又左衛門(又左) | |||
戒名 | 高徳院桃雲浄見大居士 | |||
墓所 | 野田山墓地、宝円寺 | |||
官位 | 従四位下左近衛権少将兼筑前守 従三位権中納言 従二位権大納言 贈従一位 |
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主君 | 織田信長、柴田勝家、豊臣秀吉 | |||
氏族 | 前田氏(菅原氏関連の一族) | |||
父母 | 父:前田利昌、母:長齢院 | |||
兄弟 | 兄:利久、利玄、安勝、 弟:佐脇良之、秀継 |
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妻 | 正室:芳春院 側室:寿福院、隆興院、金晴院、明運院、逞正院 |
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子 | 利長、利政、利常、知好、利孝、利豊 幸、蕭、摩阿、豪、与免、千世、菊 保智、福ほか |
前田 利家(まえだ としいえ、天文7年12月25日(1539年1月15日) - 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日))は、安土桃山時代の武将。加賀藩主前田氏の祖。前田利春の4男、母は竹野氏の娘(長齢院)。正室は尾張守護 斯波氏の家臣高畠直吉の娘芳春院(まつ)、側室は千代保(寿福院)など多数 。兄弟に前田利久、前田安勝、佐脇良之、前田秀継。従二位・権大納言。薨後、贈従一位。生年は1536年や1537年等の異説あり。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 織田家直参
尾張国海東郡荒子村(愛知県名古屋市中川区)に土豪前田利昌の四男として生まれる。幼名犬千代。1551年(天文20)に14歳で織田信長に仕え、元服して前田又左衞門利家と名乗った(又四郎とも)。
青年時代は血気盛んで槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれた。翌1552年の萱津の戦いで初陣、織田家の権力闘争である稲生の戦いでも功績を上げる。信長の親衛隊的存在である赤母衣衆となり、加増を受けて家臣を抱える。1558年(永禄元)にはまつ(芳春院)を室に迎えるが、翌59年に同朋衆の捨阿弥と諍いを起こし、捨阿弥を斬殺した罪で出仕停止処分を受け浪人暮らしをする。
利家は1560年(永禄3)の桶狭間の戦い、森部の戦いで功績を上げて帰参を許される(浪人の2年間、信長は利家が他の大名に仕官するかしないか見極め、信用が出来るか試したという解釈もある)。
浪人中に父の利昌が死去し、前田氏は長男である兄・利久が家督を継いでいたが、信長は1569年(永禄12)に利家に前田家の家督を継ぐように命じる。 利家は信長が推進する統一事業に従い、元亀元年(1570年)9月には浅井氏・朝倉氏との姉川の戦い、天正2年(1574年)の長島一向一揆、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いなどでの参戦が確認されているが、母呂衆、馬廻りという役柄から大きな武功も立てる機会が無かったであろうと考えられている。
[編集] 北陸方面
天正2年(1574年)(天正2)には柴田勝家の与力となり、越前国の一向一揆の鎮圧に従事した。この際の苛烈な一向一揆の弾圧については、越前小丸城の石垣に刻まれた「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」などの記録などによって残る(この一揆から生き残り、まもなく行われた小丸城の普請に参加した人夫によるものと考えられている)。
翌年には越前一向一揆は平定されたが、この際に佐々成政、不破光治とともに府中10万石を与えられ(三人相知で、3万3千石が個別に与えられたわけではない)、「府中三人衆」と呼ばれるようになる。利家は柴田勝家の下で(与力であって勝家の配下ではない)上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事するが、信長の命により摂津国有岡城攻め、播磨国三木城攻め(三木合戦)にも参加しており、信長の直参的役割は続いていたものと思われる。
天正9年(1581年)には上杉景勝軍が排除された能登国七尾城(石川県七尾市)主となり、能登23万石を領有する大名となった。翌年難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を廃城、港を臨む小山を縄張りして小丸山城(七尾市)を築城した。
[編集] 賤ヶ岳の戦い
天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠る越中・魚津城を攻略中であり、秀吉の光秀攻撃に加わることができなかった。
光秀の死亡後まもない同月27日に織田家の後継人事等を決定する清洲会議において羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力であったことからそのまま勝家に与するが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ。同年11月には勝家の命を受け、金森長近・不破勝光とともに山城・宝積寺城(京都府大山崎町)にあった秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行った(ただしこれは雪に閉ざされた北陸を本拠地としていた勝家の方便である)。この際に秀吉に逆に懐柔されたといわれる。
そして翌天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでは、利家は5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、合戦のたけなわで突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけた。利家はその後越前・府中城(武生市)に籠るが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したえるというエピソードが残る(『賤岳合戦記』)。その後府中城に使者として入った堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城(福井市)に籠もった柴田勝家攻めの先鋒となった。戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を加増され、尾山城(のちの金沢城)に移った。
天正12年(1584年)の秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した小牧・長久手の戦いでは、佐々成政が徳川家康らに呼応して能登に侵攻したが、末森城で成政を撃破した。翌天正13年、豊臣秀吉が10万の大軍を率いて越中へ攻め込むと、成政は結局降伏した。利家は越中国のうち3郡を加増された。
[編集] 豊臣政権
その後、九州征伐では8000の兵を率いて出兵。秀吉が主催した北野大茶会や聚楽第行幸にも陪席する。1590年の後北条氏制圧のための小田原合戦では上杉景勝や真田昌幸らと八王子城など北条方の諸城を陥落させる。その後は奥州の南部信直や伊達政宗などに対して豊臣家への服従をもとめる交渉役となる。
国内を統一した後の秀吉が行った唐入りあるいは高麗御陣すなわち文禄・慶長の役においては徳川家康とともに名護屋の陣中におり、大陸へは渡っていない。このときにまつの侍女千代の方との間に生まれた子供が猿千代、のちの加賀藩主前田利常である。猿千代については、秀吉の隠し子という説もある。
豊臣政権では徳川家康と並ぶ重臣の扱いを受け、秀吉が五大老・五奉行の制度を整えると五大老のNO.2として大納言の官位を持ち、秀吉の実子である豊臣秀頼を後見する立場となった。1598年には家督を長男・利長に譲り隠居する。秀吉は危篤の際に実子の秀頼を利家らに託して死去する。
[編集] 最期
しかし、家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・蜂須賀家政等と無断で婚姻政策を進めた。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の屋敷に集結する騒ぎとなった。利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や石田三成等が味方した。結局、利家が家康のもとを訪問。家康が向島へ退去すること等で和解した。この直後、利家の病状が悪化し、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した。大坂の自邸で程なく病死。享年61。
利家の死後、加賀征伐が検討される。利長は最初交戦する立場で城を増強したりなどしていたが、母の芳春院が人質になることを条件に撤回された。のちに上杉家が家康に反抗し、約80万石を失ったことをみれば前田家は先見の明があったと言える。しかし家康と唯一互角に渡り合える程の人望と武略を持っていた利家の死去は、豊臣氏滅亡が決定的となる一因ともなった。
法名:高徳院殿桃雲浄見大居士。墓所:石川県金沢市野田町の野田山墓地、金沢市宝町の宝円寺。肖像画は開禅寺所蔵のもののほか数点。利家着用であったと伝えられる武具も現存する。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 1586年(天正14)3月、従四位下左近衛権少将兼筑前守に叙任。
- 1589年(天正17)4月、右近衛権中将に転任。筑前守如元。
- 1590年(天正18)1月21日、正四位下に昇叙し、参議に補任。10月20日、参議辞職。
- 1594年(文禄3)4月1日、従三位権中納言に昇叙転任。5月20日、権中納言辞任。
- 1596年(慶長元)5月11日、従二位権大納言に昇叙転任。
- 1597年(慶長2)1月16日、権大納言辞任。
- 1598年(慶長3)7月、豊家五大老の一角として就任。
- 1599年(慶長4)閏3月3日、薨去。月日不詳、贈従一位。
[編集] 一族 縁者
- まつ(芳春院):正室
- おちょぼ(寿福院):側室
- 前田利常:4男(加賀藩第3代藩主)
- 隆興院:側室
- 金晴院:側室
- 福(高源院):8女(長好連・中川光忠室)
- 前田知好:3男
- 明運院:側室
- 逞正院:側室
- 前田利豊:6男
ほか養子
[編集] 家臣
[編集] 人物
利家は若年の頃から、傾奇者の風潮を好んだ。6尺(約182cm)の大男で、容姿も端整であった事から非常に見栄えのいい武将であったと言われている。また同時代には利家の性格を「律義者」であったと評されている。
後年には漢籍などの学問も学び、茶の湯などの文化的活動も行う。危篤の際には正室の芳春院が後生のためにと縫った経帷子を着る事を断ったエピソードも知られる。
また、秀吉とは、秀吉が足軽時代から親しく、信長時代は良きライバルであり、秀吉と敵対関係になった賤ヶ岳以降、家臣として秀吉に下った後も友人関係を内密で続けたという。「律義者」であったので、秀吉も秀頼の後見人を任せたと思われる。
甥の前田慶次郎(利益)とはソリが合わなかったようで、利家が慶次郎に騙されて水風呂に入れられ、前田家中が大騒動になった事もあったようだ。隆慶一郎、原哲夫共作の漫画「花の慶次 ―雲のかなたに―」では、利家と慶次郎の確執が面白可笑しく、時にはホロリとさせられる描写で表現されている。この物語では利家と利益を老人と青年として描写しているが、利益が年上との資料もあり定かではない。
後年、捨阿弥を惨殺した罪で出仕停止処分を受け浪人暮らしをしていたときのことを語る際は、必ず「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人(信用できる人物)だ。」と言っており、誰も救いの手を差し伸べてくれなかった経験が利家を「律義者」にしたのかもしれない。
加賀にはこのような歌が遺されている。
- 『天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに咲く』
(『三葉葵紋の徳川家よ 剣梅鉢紋の前田家よ 梅の花は葵より高い所に咲く』という意味である)家康と利家は秀吉の時代、五大老の一番の上座に肩を並べて座っていたが秀吉が死ぬと徳川家が天下をおさめる大将軍となった。前田家は大々名であるとはいえ、徳川家の家来にならなければならなかった。その時の運に対し、加賀の人々はその口惜しさを歌ったと伝えられている。
[編集] 関連項目
- TVドラマ
- 『加賀百万石~母と子の戦国サバイバル~』(1999年NHKドラマ 利家:原田芳雄)
- 『利家とまつ~加賀百万石物語~』(2002年NHK大河ドラマ 利家:唐沢寿明)
- 『功名が辻』(2006年NHK大河ドラマ 利家:唐沢寿明)
- ゲームソフト
- 「戦国BASARA」(2005年、プレイステーション2向け、制作:カプコン)
- 「戦国BASARA2」(2006年、プレイステーション2向け、制作:カプコン)
- 前田氏 - 加賀藩
- 日本史の人物一覧
- 松山城 (武蔵国)
- 青鳥城
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