世界写真史
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世界写真史(せかいしゃしんし)とは、世界の写真史(写真の歴史)のこと。20世紀前半までは、ほとんど「欧米の写真史」と同義といってよい。
以下、その概要を述べる。なお、日本の写真史については、日本写真史を参照。
目次 |
[編集] 写真の発明と黎明期
この時期については、写真を参照。
[編集] 記録写真・肖像写真の時代
- ストレート
[編集] ピクトリアリスムの時代
- ピクトリアリスム→ストレートでない
- リンクト・リング
- フォト・セセッション
[編集] ストレートフォトグラフィ・モダニズムの写真の時代
1910年頃から、ピクトリアリスムに対して、絵画の模倣にすぎないという意識が強まり、ピクトリアリスムを否定して、写真本来の機能に基づきかつ写真にしかできない視線で写真作品は制作されるべきだ、との考えが起こってきた。これが、写真史における「モダニズム」である。
この考えにもとづき、2つのかなり異なる方向が取られることとなった。1つは、絵画的表現から独立した、よりストレートな作品を、技巧をあまり用いずに制作する方向(ストレートフォトグラフィ)であり、もう1つは、写真独自の技巧をむしろ積極的に(極端に)用いて、前衛的な作品を制作する方向で、いずれの方向も、写真にしかできない表現をめざしたものである。前者は、アメリカにおいて顕著であり、特に、スティーグリッツの周辺やグループf/64で、大きく展開した。ヨーロッパでも、新即物主義傾向の作品やバウハウス等の構成主義的な作品の中に、その動きがある。後者については、ヨーロッパにおいて顕著であり、未来派、ダダ、シュルレアリスムなどの動きと連動し、フォトグラム、フォトモンタージュ、ソラリゼーションなどの技法も積極的に用いられた。なお、この2つの方向は、互いを排斥するものではない。例えば、極めてストレートな作風のアジェの作品が、シュルレアリスム的感覚を内包していることは周知の事実である。
これらの傾向は、この時期およびそれ以降の広告写真やファッション写真へも大きな影響を与えた。
[編集] 報道写真の時代
1920年代頃から、撮影・印刷技術の発展とマスメディアの発展(読者の「見たい」という欲望の開拓)により、報道写真(フォトジャーナリズム・グラフジャーナリズム)が勃興しはじめ、第二次世界大戦をはさんで、その繁栄が続く。1936年の雑誌LIFEの創刊や1947年のマグナム・フォトの設立などは、それを象徴する出来事である。
報道写真は、真実を写すことが求められる。すなわち「やらせ」や「うそ」を報道することは否定される。ただし、真実は1つだけではなく、複数のうちから選択できる可能性があり、また、その選択において、自己の主張を含めることもできる。これは、すなわち、写真の利用の仕方により、ある程度の範囲で「真実」の選択が可能であることを意味している。典型的には、「プロパガンダ」であり、ケースにより、それは、真実とはいえないものまで含みうる。また、報道写真において、スクープを重視する方向も、この「選択可能性」という性質と深くかかわっている。
報道写真は、外見的には、ストレートフォトグラフィーを用いている。
[編集] 模索から多様化・混沌の時代(現代美術としての写真の時代)へ
1960年代頃から、「写真の中では報道写真がもっとも優れている」という神話が崩れ始め、写真作品は、それぞれの分野で進むべき方向についての模索を続け、全方向に拡散していく時代になったと考えられる。すなわち、ある時期ある時期を捉えて、ある種の傾向でくくることができなくなっていった。このことについては、写真の多様化として評価される一方で、混沌であると否定的にとらえる考え方もある。
写真作品の外見的な特徴としては、ストレートであってもストレートでなくても構わない。外見は重視されず、例えば、いくら美しい作品でもそれだけでは評価されにくくなった。撮影技術や見た目(外見的な質や様式)ではなく、むしろコンセプトが重要視される。コンセプトさえしっかりしていれば、撮影技術は稚拙でもかまわないという考え(コンセプト至上主義)すら存在する。したがって、ある独立した1作品をとりあげて、「この作品はいい」とはいいにくい状況になっている(1作品では、コンセプトが見えない)。
このことについては、写真が外見だけで判断されず、その背景にあるものを含めて評価されるようになったとして、肯定的にとらえる考え方もある。その一方で、写真の独自性が失われて、現代美術に飲み込まれ、現代美術の一部分となってしまった、と否定的・批判的にとらえる考え方もある。例えば、後者の考え方からすれば、「コンセプト至上主義により、逆に(技術的に)うすっぺらい(奇異な・わかりにくい)写真作品が量産されている。」という批判が存在しうる(これは、現代美術一般についても当てはまる批判である)。いずれにしても、写真を撮る者が写真家である必要性がない時代(写真家ではない美術家が写真作品を制作できる時代)が訪れたといえる。
[編集] 参考文献
- 写真の歴史/ナオミ・ローゼンブラム/飯沢耕太郎・日本語版監修/美術出版社/1988年
- カラー版・世界写真史/飯沢耕太郎監修/美術出版社/2004年
[編集] 関連項目
- 写真年表