世良田頼義
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世良田 頼義(せらだ よりよし、生没年不詳)は鎌倉時代の武将で、新田氏の一門である世良田氏一族。新田氏による彼の系譜上の関係は一切不詳だが、得川頼有(下野四郎太郎)の孫ともいわれる。通称は弥次郎。朝谷氏の祖。
[編集] 概要・人物
彼に関する資料の大部分は、鑁安寺新田足利両家系図(新田氏根本資料)による。それによると1247年(宝治元年)に頼義は御家人の一人として鎌倉幕府に仕え、仲が良かった三浦泰村に味方し、敵対する執権北条時頼と安達景盛に謀反を起こし、宝治合戦で幕府軍と懸命に戦った。だが、時頼と景盛の統率力で、三浦軍は壊滅し、泰村自身は幕府軍に館を包囲され寺社に逃げるも一族揃って自決した。一方、頼義は命からがらに常陸国筑波山の奥地まで逃げ込んだ。頼義は当地で朝谷禅門と号して出家して隠棲したという。やがて数年後に禅門入道(頼義)は不遇のうちに病没したという。
彼の孫に当たる朝谷義秋・朝谷正義兄弟は東新治郡大増郷で悪党として常陸南部を荒らし回ったが、正和2年(1313年)頃に、上野国の新田本宗家の新田朝氏に新田荘に招かれて、朝氏の妹と領地を与えられ、優遇されたと記されている。
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