朝谷氏
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朝谷氏(あさやし、またはあさたにし)は清和源氏の流れを汲む、新田氏の支族の支族である。開祖は世良田氏一族の世良田弥次郎頼義という。
鑁安寺新田足利両家系図(新田氏根本資料)によると、1247年(宝治元年)に頼義は鎌倉幕府の御家人の一人で、三浦泰村に味方し、北条時頼と安達景盛に謀反を起こし宝治合戦で泰村と共に幕府軍と戦った。だが、泰村は大敗し追い詰められて自決し、頼義は命からがらに常陸国筑波山まで自分の郎党を率いて逃亡し、当地で朝谷禅門と号して出家したという。数年後に禅門入道(頼義)は不遇のうちに没したという。やがて60年前後の歳月が流れて、1313年(正和2年)頃に亡き頼義の孫である朝谷太郎義秋・朝谷次郎正義らが、筑波山付近の東新治郡大増郷を拠点として、当時剽悍だった悪党の頭領として常陸南部地帯を荒らし回ったという。
上野国で朝谷兄弟の噂を聞いた新田朝氏は彼等が単なる荒武者ではなく勇猛で統率力があり、器量に勝れ標的は貧しい農民を貪る地頭であって、奪ったものを貧民に分け与えるとの評判が高いので、朝氏は遠縁に当たる朝谷兄弟を新田荘に呼び出し、自分の妹を与え、領地を受領したという。後に義秋が病死し、嗣子がなかったので弟の正義が家督を継いだと記されている。その後の朝谷氏に関する資料は不詳である。
朝谷の地名は今のところ不詳だが、おそらく筑波山付近にあったと思われる。