中沢寿士
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中澤壽士(なかざわひさし)は日本のビッグバンドジャズの草分けスターダスターズのトロンボーンプレーヤーで、後にMBSジャズオーケストラ主宰。毎日放送・素人名人会の常任審査員を長く努め、名講評で番組を支えた。
瀬川昌久の「舶来音楽芸能史・ジャズに踊って」(清流出版)で紹介されているように、日本のジャズ・ポップスの水準が高まったのは、意外にも日米開戦直前の昭和16年(1941)だった。日中戦争が泥沼化するなか、ジャズに対する世間の風当たりは日増しに強まってきていたが、そんな風潮とはうらはらに演奏者たちのテクニックや作編曲の能力は格段の進歩を遂げていった。
服部良一が淡谷のり子や笠置シズ子に、歌謡ブルースやブギウギを作曲・編曲して空前のヒットとなった背景には、戦前のジャズメン達の演奏能力や上海租界帰りのミュージシャンに負うところが大きい。
大阪松竹少女歌劇団(OSSK)の歌姫・笠置シヅ子が松竹楽劇団(SGD)の旗揚げ公演「スヰング・アルバム」に参加したのは昭和13年(1938)4月。このとき、同歌劇団に作・編曲と音楽指揮で招かれていた服部良一と出会う。
戦時体制が逼迫してきた昭和16年(1941)の正月興行「桃太郎譚」を最後にSGDは3年足らずで解散するが、笠置は歌手として独立すると、トロンボーン奏者の中沢寿士をリーダーに「笠置シヅ子とその楽団」を結成。しかし、米英音楽が禁止されたことからレパートリーを著しく制限されていった。
マキノ光雄製作・関川秀雄監督の東横映画「日本戦歿学生の手記:きけ、わだつみの声」(1950)では、「中沢寿士とシンフォニックス・ジャズ・オーケストラ」として演奏録音に参画している。
戦後、帝都ダンスホールなどでのバンド演奏を経て、渡辺弘らと米軍将校クラブ(第一ホテルを接収)のスターダスターズに参画、後に京都にあった美松ダンスホールで「美松ジャズ・オーケストラ」を結成。民放テレビ時代の黎明期に新日本放送/毎日新聞に誘われ、毎日放送専属バンド「中澤寿士とMBSジャズオーケストラ」として1951年にスタートした。関西に戻ったあとは、大阪府池田市五月丘に居を構えた。
[編集] 中沢寿士とMBSジャズオーケストラの一員であったプレーヤー達
- サックス・編曲:富田梓仁[本名:平川和博](1951)
- サックス・編曲:岡田愛詩[岡崎広志から改名](1954)
- サックス:津田清(1966)
- ドラマー:阿野次男(1971)